第十一章:欠片を拾い集めて
明莉が穂乃香の部屋を出てから三週間が過ぎ、十二月も終わりに近づいていた。金沢の街は、本格的な冬支度を終えていた。街路樹にはイルミネーションが施され、通りを歩く人々の吐く息が白く見える季節になっていた。今年もあと少しで終わる。そう思うと、明莉はこの一年の出来事の重さを、改めて実感せずにはいられなかった。加賀ほまれ製菓の試食会議で、明莉は新商品の柚子菓子について、企画チームと話し合っていた。テーブルの上には、切り分けられた試作品が並んでいる。柚子の黄色が、冬の弱い光の中でも鮮やかに見えた。会議室の窓の外には、雪がちらつき始めていた。
「酸っぱい。でも、その一口で冬の輪郭が戻る」
明莉がそう言うと、同僚の一人が首をかしげた。試作品を口に運んだ他の同僚たちも、それぞれ小さく頷いたり、首をひねったりしていた。
「売りにくくならない?『まろやか』にしたほうが、無難だと思うけど」
「無難にすると、この菓子の一番いいところが消えると思う。酸味を隠すより、正面から伝えたほうが、お客さんの信頼を得られるはず」
明莉は落ち着いた声で、しかしはっきりとそう説明した。欠点だと思われがちな酸味こそが、この商品の核心だった。それを隠して当たり障りのない言葉で包んでしまえば、結局は誰の記憶にも残らない菓子になってしまう。会議室の空気が、少しずつ明莉の意見に傾いていくのを感じた。
「それでも、うちの主力商品は、これまで甘さと食べやすさを売りにしてきました。急に方向性を変えて、お客様が戸惑いませんか」
別の同僚が、慎重な意見を述べた。会議室の空気が、一瞬、緊張したものに変わった。明莉はその懸念にも、正面から向き合った。
「戸惑う方もいるかもしれません。でも、『まろやか』という言葉で誤魔化した商品を買って、期待と違う味だったと感じるお客様のほうが、長い目で見ればブランドへの信頼を損なうと思います」
明莉は資料の中の売上データを指し示しながら、続けた。
「実際、過去の商品でも、味の特徴を正直に伝えたものほど、リピート率が高い傾向があります。今回のデータでも、それは裏付けられています」
明莉はグラフを画面に映し出し、数字を指し示しながら説明を続けた。会議室の空気が、次第に落ち着いた検討の雰囲気に変わっていった。
明莉の言葉に、会議室が静まり返った。「今まで問題にならなかったから」という理由で判断を先延ばしにすることの危うさを、明莉はこの数週間で、痛いほど学んでいた。上司の田村が、しばらく考え込んでから口を開いた。
「わかった。今回は、明莉さんの案で進めてみよう」
田村がそう決断すると、会議室にいた同僚たちも、次々と頷いた。窓際に座っていた若手社員が、小さく拍手をするような仕草を見せた。明莉はその反応に、少し照れくさくなりながらも、確かな手応えを感じていた。緊張していた肩から、ふっと力が抜けていくのがわかった。自分の意見が通ったことよりも、正直な言葉を選んだことのほうに、明莉は満足を感じていた。曖昧な言葉で相手を丸め込むより、正直な言葉で向き合うほうがいい。それは、この数週間で、明莉自身が痛いほど学んだことだった。
試食会議を終えたあと、明莉は自分のデスクに戻り、企画書の修正作業を進めた。窓の外では、雪が本格的に降り始めていた。デスクの上に置かれたカレンダーには、年末の予定がびっしりと書き込まれている。田村が近くを通りかかり、明莉のパソコン画面を覗き込んだ。
「さっきの提案、良かったよ。強気に出たね」
田村はそう言って、明莉の資料を軽く指で叩いた。
「ありがとうございます。今回は、絶対に曖昧にしたくなかったので」
明莉は素直にそう答えた。以前の自分なら、上司の評価を素直に喜ぶより先に、次にどう振る舞うべきかを気にしていたはずだった。今は、その評価を、そのまま受け取ることができた。田村は満足そうに頷き、自分のデスクへ戻っていった。オフィス全体が、年末の慌ただしさに包まれる中、明莉は一人、静かな達成感を噛みしめていた。
その日の夜、穂乃香は自宅で、受注サイトの改修作業をしていた。デスクの上には、パソコンの光だけが灯っている。画面の左上に、迷った時にすぐ前のページへ戻れる矢印のアイコンを追加する。ユーザーが道に迷っても、戻る場所があると分かっているだけで、安心して先へ進めるようになる。その設計を考えながら、穂乃香はふと、自分自身のことを思った。キーボードを打つ手を止め、しばらく画面を見つめたまま、動けなくなった。
迷った時に戻れる場所があるということ。その安心感を、ユーザーのために設計しながら、穂乃香は自分自身には、そういう場所を用意してこなかったことを、思い知った。明莉との関係において、穂乃香はずっと、戻る道を自分で塞いできた。嘘をつき、避け続け、必要な時に本当のことを言わなかった。その結果、今、戻りたくても戻れない場所に、自分自身を追い込んでしまっていた。皮肉なことに、他人のための設計には気を配れても、自分自身の人生には、同じ配慮を向けてこられなかった。デザインの仕事を通して学んできたはずのことを、自分自身の生き方には、まったく活かせていなかった。その事実を、穂乃香は今更ながら突きつけられていた。
パソコンの画面に表示されたテスト用の受注ページを、穂乃香は何度もクリックしてみた。矢印のボタンを押すと、確かに前のページへ戻れる。そのシンプルな動作を確認しながら、穂乃香は、自分の人生にはそんなボタンが存在しないことを、改めて思い知らされた。取り消しのきかない選択を、自分はいくつも重ねてきた。それでも、前へ進むことだけは、まだできるはずだった。
パソコンの時計は、深夜零時を回っていた。それでも穂乃香は、眠る気になれなかった。明日も仕事があることはわかっていたが、今夜だけは、この静かな時間の中で、自分の気持ちと向き合い続けたかった。窓の外の暗闇に、時折、遠くを走る車のライトが一瞬だけ光り、また消えていった。デスクの上に置かれたマグカップの中身は、とうに冷めきっていた。ただ、穂乃香はそのカップを、なんとなく手放せずにいた。
サイトの修正が一段落すると、穂乃香はメッセージアプリを開き、明莉への文章を書き始めた。指先がキーボードの上で、何度も止まった。
「ごめん、だけでは許してほしいと言ってるみたい」
打った文字を、穂乃香はすぐに消した。謝罪の言葉だけを並べても、それは自分が楽になりたいだけの行為に見えてしまう。もう一度、別の書き出しを試す。「あの日のこと、まだ考えてる」――それも違う気がして消した。三つ目、四つ目と、書いては消す動作を繰り返すうちに、画面の光だけが、部屋の中で唯一の明るさになっていた。何度も打っては消し、打っては消しを繰り返すうちに、時計の針は深夜を指していた。
「でも、何も送らなければまた黙ることになる」
その葛藤の中で、穂乃香は何度も文章を書いては消した。最終的に、返事を求めない短い手紙のような文章を書き上げたが、それを送信することは、まだできなかった。書き上げた文章を、穂乃香は何度も読み返した。行間から、自分自身の弱さが透けて見えるようで、送信ボタンを押す指が、どうしても動かなかった。下書きフォルダに保存したまま、穂乃香はスマートフォンの画面を閉じた。窓の外には、音もなく雪が降り続いていた。
その日の夜、明莉は穂乃香にメッセージを送った。デスクライトだけが灯る部屋で、スマートフォンの画面を見つめながら、明莉は何度も文章を打ち直した。
「話を聞く。でも、許す約束はできない。それでもいい?」
迷いに迷った末に、明莉はその一文を打ち終えた。これまでで一番、慎重に選んだ言葉だった。何度も読み返し、余計な感情が滲んでいないかを確かめてから、送信ボタンを押した。
送信してすぐ、既読の印がついた。まるで、ずっと待っていたかのような速さだった。既読の文字を見つめながら、明莉は自分の心臓が、少し速く打っているのを感じた。会う約束を切り出すまでに、明莉自身、何日も悩み続けていた。この三週間、明莉は仕事に集中することで、その悩みから意識をそらしてきた。それでも、心の奥では、いつか穂乃香と向き合わなければならない日が来ることを、わかっていた。
「それでいい。聞いてくれるだけでいい」
その即座の返信に、明莉は少し腹が立った。まるで、返事を用意して待ち構えていたかのような速さが、かえって明莉の中の複雑な感情を刺激した。自分がこれだけ時間をかけて出した決断に対して、こんなにも早く返事が返ってくることが、どこか不公平に感じられた。それでも、明莉は日時を決めて、会う約束を交わした。
卯辰山までのバスの中で、明莉は何度も、今日話すべきことを頭の中で整理した。責めることが目的ではない。ただ、事実を確かめ、自分の中の整理をつけたい。その一心で、明莉はバスに揺られていた。車窓の外を流れる雪景色を眺めながら、明莉は自分の中の緊張と向き合い続けていた。展望台の駐車場でバスを降りると、冷たい風が頬を刺した。約束の時間の少し前に、穂乃香はすでに到着していて、ベンチの端にひっそりと座っていた。
卯辰山の展望台で、二人はベンチの両端に、少し距離を置いて座った。中央には、一人分の空白が残っていた。眼下に広がる金沢の街並みは、雪化粧をして、いつもより白く輝いて見えた。展望台には他に人影もなく、二人だけの静けさが広がっていた。息を吸うと、冷たい空気が肺の奥まで染み渡っていく感覚があった。
「二人で会ったことも、個人的な連絡もないんだね」
明莉が確認するように尋ねると、穂乃香はゆっくりと頷いた。目を逸らさない姿勢に、明莉はその答えの真剣さを感じ取った。
「ない。履歴を見せて済むことだとも思ってない」
その言葉に、明莉は初めて小さく頷いた。証拠を示すことよりも、その一言の誠実さのほうが、明莉の中では大きな意味を持っていた。何かを証明しようとするのではなく、ただ事実をそのまま口にする穂乃香の姿勢が、以前とは違って見えた。
「明莉を失うのが怖かった。それで、明莉に選ばせなかった」
穂乃香は、恋心を隠し続けた理由を、時系列に沿って話し始めた。言い訳をせず、ただ事実だけを並べていく。健人と初めて会った日に感じた違和感。その気持ちを見ないふりを続けた日々。明莉の告白を後押ししながら抱えていた矛盾。穂乃香はそのすべてを、隠さずに語った。
「食事会で初めて会った時から、何かが引っかかってた。それが恋愛感情だって認めるのが、怖かった。認めたら、この関係が壊れる気がして」
穂乃香は膝の上の手を見つめながら、言葉を選ぶように続けた。あの日の食事会の記憶が、まるで昨日のことのように鮮明に蘇っているようだった。
穂乃香は、一つひとつの記憶を、まるで確認するように話していった。二人の間の空白のベンチに、冷たい風が吹き抜けていく。明莉は口を挟まず、ただ黙って聞き続けた。反論も、慰めも、今はまだ必要なかった。ただ、穂乃香の言葉を、事実として受け止めることだけが、今の明莉にできることだった。
「くるみ餅の日も、二人だけの場所を作りたいって言われた日も、健人さんの言葉の裏に、私のことがあるって、なんとなく気づいてた。それでも、気づかないふりを続けた」
穂乃香は膝の上で、両手を強く握りしめていた。
「気づかないふりをするのが、一番簡単だったから。認めてしまえば、明莉を裏切ってることになる。でも認めなければ、なかったことにできる。そう思ってた」
穂乃香の告白は、これまで隠されてきた出来事の裏側を、一つずつ明らかにしていった。明莉はその一つひとつを、黙って受け止めていった。今まで謎だった健人の言動の意味が、こうして一つずつ解き明かされていくことに、明莉は複雑な感覚を覚えていた。すっきりする部分もあれば、余計に胸が痛む部分もあった。
「明莉が告白を決めた日、私は本当に、明莉のためを思って応援したつもりだった。でも、それだけじゃなかったことに、あとになって気づいた」
穂乃香の声は、震えていたが、止まらなかった。話し終えるまで、逃げないという意志が、その声には込められていた。ベンチの木の感触が、座っている明莉の手のひらに、冷たく伝わってきた。
「話してくれて、ありがとう」
明莉はそう言った。感謝の言葉ではあったが、それが許しを意味するわけではないことは、二人とも分かっていた。ただ、事実を隠さずに話してくれたことに、明莉は素直に感謝していた。展望台の空気は冷たかったが、二人の間に流れる空気は、来た時よりも、いくらか穏やかになっていた。今日という日を、明莉は少なくとも、無駄にはしなかったと感じていた。
「今すぐ前みたいには話せない」
明莉は正直にそう告げた。穂乃香はそれに対して、「戻ってきて」とは言わなかった。明莉が自分で決める時間を、奪おうとはしなかった。
「うん。それでいい」
その短い返事だけが、穂乃香の口から漏れた。以前の穂乃香なら、もっと言葉を重ねて、関係を早く元に戻そうとしていたかもしれない。今は違った。明莉のペースを尊重するということを、穂乃香は身をもって学んでいるようだった。展望台に吹く風が、少しずつ強くなってきていた。
「時間がかかると思う。どれくらいかは、私にもわからない」
「うん、待つ。急かさない」
穂乃香の言葉に、明莉は少しだけ、肩の力が抜けるのを感じた。急かされないという約束が、これほど安心につながるとは、思っていなかった。今までの関係の中で、明莉はいつも、自分から相手のペースに合わせようとしてきた。今回初めて、相手が自分のペースに合わせてくれるという経験を、明莉はしていた。
遠くで街の灯りが点き始めるのを、二人はしばらく黙って眺めていた。沈黙は気まずいものではなく、これまでの関係の中では感じたことのない、新しい種類の静けさだった。展望台を吹き抜ける風が、二人の間の空白を、ゆっくりと満たしていくようだった。金沢の街並みが、少しずつオレンジ色の光に包まれていく様子を、二人は同じ方向を向いて眺め続けた。
「寒くない?」
穂乃香が、久しぶりに何気ない調子で尋ねた。その口調に、明莉は懐かしさを覚えた。深刻な話の合間に、こうしてふと日常の言葉が挟まれることが、二人の関係がまだ完全に壊れたわけではないことを、それとなく示しているようだった。
「平気。まだ、もう少しここにいたい」
明莉はそう答えた。この景色を、もう少しだけ、二人で眺めていたいと思った。それが、以前のような親密さの表れなのか、それとも単に、まだ立ち去りたくないだけなのか、明莉自身にもうまく説明できなかった。ただ、この場所を離れれば、また日常が二人を引き離してしまうような、そんな漠然とした不安があった。
別れ道に差し掛かると、明莉は足を止めた。展望台からの帰り道、二人は自然と別々の方向へ帰ることになる分かれ道に来ていた。街灯の下に、二人分の影が、少し距離を置いて並んでいた。
「家に着いたら連絡する」
「うん。気をつけて」
その短いやり取りだけが、二人の間で交わされた。仲直りという言葉を、どちらも使わなかった。それが、二人の間の最初の、新しい約束になった。「仲直り」という言葉を使ってしまえば、まるで何もなかったかのように、以前の関係へ簡単に戻れるという誤解を生んでしまう。二人とも、そのことを、暗黙のうちにわかっていた。
穂乃香が一歩踏み出し、それから振り返った。夕暮れの光が、その横顔を淡く照らしていた。
「今日は、ありがとう。聞いてくれて」
「うん」
それだけを言って、明莉は自分の帰り道を歩き始めた。振り返らなかったが、それは以前のように相手を拒絶する意味の振り返らなさとは、少し違っていた。前を向いて、自分の足で歩き出す。その意味のほうが、今の明莉には近かった。雪を踏みしめる自分の足音だけが、しばらくの間、耳に響いていた。
それから数日、明莉と穂乃香は、短いメッセージを少しずつ交わすようになった。仕事の報告、体調、その日の天気。大きな話題には触れず、当たり障りのない、けれど確かな言葉のやり取りだった。最初の数日は、一日に一通あるかないかのやり取りだったが、その一通一通に、明莉は少しずつ心を動かされていった。年末が近づくにつれて、街全体が慌ただしい空気に包まれていったが、二人の間のやり取りだけは、その慌ただしさとは無縁の、静かなペースを保っていた。誰かに急かされることなく、自分たちのペースで少しずつ距離を縮めていくこと。それが、今の二人にとって、一番必要なことなのかもしれなかった。
「コピー、通った」
明莉がそう送ると、しばらくして返信が届いた。仕事終わりの時間帯で、穂乃香もちょうどパソコンに向かっていたのかもしれない。
「サイト、公開できた。おめでとう」
返事を急かさず、相手の話題を奪わず、二人は少しずつ、新しい距離感と速さを覚えていった。以前のように、何でも気軽に話せる関係には、すぐには戻れない。それでも、こうして少しずつ言葉を交わせることに、明莉は静かな安堵を覚えていた。
「今日、雪すごいね」
ある日、穂乃香からそんな一文が届いた。明莉は窓の外を見て、確かに今日は朝から雪が降り続いていることに、目を留めた。会社の窓ガラスに、細かい雪の粒が音もなく積もっていくのが見えた。
「うん、積もってる。気をつけて帰ってね」
その何気ないやり取りの中に、明莉はかつての二人の気安さの欠片を、少しだけ見つけたような気がした。天気の話、些細な日常の一コマ。かつては当たり前に交わしていた言葉が、今はひとつひとつ、大切な意味を持つようになっていた。すべてが元通りになったわけではない。だが、こうした小さなやり取りの一つひとつが、二人の関係を、少しずつ新しい形に組み直していっているように感じられた。
「今度の休み、雪だるま作りに行かない?」
数日後、穂乃香からそんなメッセージが届いた時、明莉は少し驚いた。まだ、そこまで気軽に誘い合える段階ではないと思っていたからだ。けれど、その誘いを断る理由も、見つからなかった。断る理由を探すことより、受け入れる理由のほうが、明莉の中では自然と多く見つかった。
「うん、いいよ。兼六園の雪吊り、見に行きたいと思ってたところ」
明莉はそう返信した。送信ボタンを押した指先に、これまでとは違う、小さな軽さがあった。何かが完全に元通りになったわけではない。それでも、少しずつ、二人の間に新しい約束が生まれ始めていた。雪だるまを作るという、たわいもない約束のはずなのに、明莉はその日を、少し楽しみに思っている自分がいた。
ふと、学生時代の記憶がよみがえった。喧嘩をしても、翌朝にはまた同じ机に戻れた、あの頃の単純さ。中学の頃、些細なことで言い争っても、翌日になれば何事もなかったかのように、また隣同士の席で笑い合えた。あの頃の関係の修復には、こんなにも長い時間や慎重さは必要なかった。あの頃のようには、もう戻れない。ただ、壊れた欠片を一つずつ拾い集めるようにして、二人は新しい形の関係を、少しずつ築き直そうとしていた。
その欠片のすべてが、元の形に戻るとは限らない。とはいえ、拾い集めることをやめなければ、いつか、今とは違う形の何かが、そこに生まれるかもしれない。明莉はそう信じることにした。窓の外では、冬の澄んだ空気の中、街の灯りが、いつもより少しだけ優しく瞬いているように見えた。
新年を迎える準備で慌ただしくなる街の中で、明莉は毎年恒例の大掃除を始めていた。棚の奥から、古いアルバムが出てきた。中学時代から大学時代までの、穂乃香との思い出の写真が、何十枚も収められている。埃をかぶった表紙を、明莉は丁寧に拭ってから、しばらく手に取ったまま、ページをめくった。掃除の手を止めて、床に座り込んだまま、明莉はアルバムに見入っていた。
制服姿の二人、文化祭で作った看板の前で笑う二人、卒業式の日に涙を流しながら抱き合う二人。どの写真の中の二人も、今よりずっと単純な関係の中にいた。あの頃の自分たちに、今の状況をどう説明すればいいのか、明莉には見当もつかなかった。だが、明莉はそのアルバムを、捨てる気にはなれなかった。むしろ、これからの二人の関係に、この過去がどんな形で組み込まれていくのか、明莉は少しだけ楽しみに思えるようになっていた。
アルバムをめくり終えると、明莉はスマートフォンを取り出し、穂乃香に短いメッセージを送った。「大掃除してたら、昔のアルバム出てきた」とだけ書いて、送信する。写真を一枚、選んで一緒に送ろうかとも思ったが、それはまだ、少し先の楽しみに取っておくことにした。しばらくして、返信が届いた。
「懐かしいね。今度見せて」
その一言に、明莉は自然と笑みがこぼれた。今度、という言葉が、まだ具体的な約束にはなっていなかったが、その言葉の中に、これからも続いていく関係の予感が、確かに含まれているように感じられた。
スマートフォンをテーブルに置き、明莉はもう一度、アルバムのページをめくった。最後のページには、金沢21世紀美術館で撮った、三人での写真が挟まれていた。あの日から、まだ一年も経っていない。それなのに、あの頃とは何もかもが違って見えた。写真の中の三人は、屈託なく笑っている。その笑顔の裏に、これほど複雑な感情が積み重なっていくとは、あの日の誰も想像していなかっただろう。だが、明莉はその写真を、アルバムから外すことはしなかった。この一年に起きたことのすべてが、自分たちの物語の一部であることに、変わりはなかったからだ。
明莉はアルバムをそっと閉じ、表紙の上にもう一度、手のひらを重ねた。今年一年を振り返ると、多くのものを失い、同時に、多くのことを学んだ一年だった。健人との別れ、穂乃香との衝突、そしてこの数週間の、慎重な言葉のやり取り。どれも、簡単には忘れられない出来事だった。けれど、その一つひとつを通して、明莉は自分自身の輪郭を、以前よりも少しだけはっきりと感じられるようになっていた。来年がどんな年になるのか、まだ誰にもわからない。それでも、少しずつ拾い集めてきた欠片が、いつか新しい形を作り上げてくれることを、明莉はそう信じ始めていた。




