第十二章:これからの道
十二月の終わり、明莉と穂乃香は、月に一度会う約束を決めた。大きな行事にはせず、ただ会って話す。それだけの約束だった。決まりごとを細かく作りすぎないことも、二人が話し合って決めたことだった。互いに無理をしないこと、それだけが、たった一つの共通のルールだった。最初の再会の場所に、二人は自然と、金沢21世紀美術館を選んでいた。
芝生広場には、冬の澄んだ光が差し込んでいた。案内旗が風に揺れ、人影はまばらだった。あの初夏の午後、三人でここを訪れた記憶が、明莉の中でまだ鮮やかに残っている。あの日は、健人がここで初めて三人の輪に加わった日でもあった。今、こうして穂乃香とだけこの場所に立っていることに、明莉は複雑な感慨を覚えていた。冬の空気は澄んでいて、遠くの山並みまではっきりと見渡せた。あの日と同じ場所に立っているのに、見える景色はどこか違って感じられた。
「久しぶりに来ると、入口が多いのがよくわかるね」
明莉がそう言うと、穂乃香は少し考えるような間を置いてから答えた。ガラス張りの円形の建物を見上げながら、穂乃香はゆっくりと言葉を選んでいるようだった。
「どこから入ってもいいって、前より好きになった」
その答えは、明莉が期待していたものとは少し違っていた。もっと単純な相槌を、明莉はどこかで期待していたのかもしれない。それでも、明莉はその違いを、無理に整えようとはしなかった。二人は結局、別々の入口から館内に入り、中で落ち合う約束を交わした。かつてなら、当たり前に同じ入口から入っていたはずだった。その小さな変化を、明莉はそのまま受け止めた。
館内で合流したあと、二人はしばらく無言のまま、展示を見て回った。会話が途切れても、以前のような気まずさはなかった。ただ、それぞれの歩幅で、それぞれの速さで、同じ空間を共有している。それだけで、十分だった。水のインスタレーションの前で、明莉はふと足を止めた。あの日、健人がここで見せた表情を、明莉はまだ覚えている。今、隣にいるのは穂乃香だけで、健人の記憶は、もうこの場所に重ならなくなっていた。
展示室を移動しながら、明莉は現代アートの作品を一つひとつ眺めていった。ガラス張りの天井から差し込む光が、床に落ちて、幾何学的な模様を描いていた。抽象的な色彩の絵画の前で、穂乃香が足を止めた。
「これ、見てるとなんか落ち着く」
穂乃香がぽつりと言った。抽象画の柔らかな色の重なりを、しばらく見つめていた。
「うん、色の重なり方が優しいよね」
言葉少なな会話だったが、そこには確かな共感があった。同じものを見て、同じように感じられる。その単純な事実が、今の明莉には、思いのほか大切なものに感じられた。以前なら当たり前すぎて気にも留めなかったようなことが、今は一つひとつ、確かめるように大切にされていた。
明莉は、この一年で自分が学んだことを、ふと思い返した。仕事では、曖昧な言葉を削り、正直に向き合うことを覚えた。人間関係でも、同じことが言えるのかもしれない。答えを急がず、相手の言葉をそのまま受け止める。その姿勢を、明莉は今、実践しようとしていた。
初夏、水引ピアスを選んだあの日から、まだ一年も経っていない。それなのに、あの頃の自分とは、まるで別人のように感じられることがあった。あの頃の明莉は、先回りして相手の言葉を埋める癖があった。相手が何を求めているかを、言葉にされる前から察して、それに応えようとしてきた。今は、その癖を、少しずつ手放そうとしている。相手が本当に何を思っているのか、言葉になるまで、ちゃんと待てるようになりたいと、明莉は思うようになっていた。
その変化は、仕事の場面でも、明莉自身の言動に表れていた。以前なら、会議で誰かが発言をためらっていれば、明莉が先回りしてその場を収めていたはずだった。今は、相手が自分の言葉で語り終えるまで、じっと待つことができるようになっていた。その小さな変化の積み重ねが、明莉という人間の輪郭を、少しずつ確かなものにしていっているようだった。
一月、二人は市内で開かれていたクラフト市を歩いた。会場には、金沢の職人たちの作品が並んでいる。木漏れ日のような柔らかい光が、テントの隙間から差し込んでいた。冷たい空気の中、色とりどりの陶器や染物が、テーブルの上に丁寧に並べられている。職人たちが、それぞれの屋台の前で、黙々と作業を続けていた。屋台の間を、二人はゆっくりと見て回った。明莉は加賀友禅の小物を手に取り、その柄をじっくりと眺めた。
「やっぱり、こういう時は目が違う」
穂乃香が、からかうように言った。手に取った小物入れの縫い目を、明莉が指先でなぞっていたことに、目が留まったのだろう。
「当たり前。売り場の見せ方まで見ちゃうもん」
明莉がそう答えると、二人は同時に小さく笑った。その笑い方は、以前とまったく同じではなかった。互いに、無理をしていないかを確かめるような、慎重な笑い方だった。それでも、笑えるということ自体が、明莉には大切な変化に思えた。屋台の奥から漂ってくる甘酒の香りが、冷たい空気の中に、ほんのりと温かさを添えていた。二人は屋台の一つで、湯気の立つ甘酒を買い、両手で紙コップを包み込んだ。冷えた指先に、その温かさがじんわりと染み渡っていった。
屋台を回りながら、他愛もない話が続いた。仕事の近況、最近見た映画、街で見かけた気になる店。深刻な話題には触れず、けれど確かに、二人の間には会話が流れていた。穂乃香が担当している新しいクライアントの話に、明莉は興味深く耳を傾けた。仕事の話をこんなふうに自然に聞けるようになったこと自体が、明莉には小さな驚きだった。
「今度、うちの新商品のパッケージ、見てもらってもいい?」
明莉が尋ねると、穂乃香は目を輝かせた。
「見たい見たい。今度データで送って」
「うん、柚子菓子の話、この前したでしょ。あれのパッケージデザイン、今詰めてて」
「あ、あの酸っぱいやつ!」
穂乃香が声を弾ませた。以前、明莉が仕事の話をしたのを、穂乃香はちゃんと覚えていた。その事実に、明莉は静かな喜びを感じた。何気ない会話の一つひとつを、相手がきちんと覚えていてくれる。それは、当たり前のようでいて、実はとても貴重なことなのだと、明莉は改めて思い知らされた。
その何気ないやり取りに、明莉は懐かしさと同時に、新しい安心感を覚えた。仕事の話を気軽に交わせる関係。それは、以前の二人にも確かにあったものだったが、今はその一つひとつが、以前よりも大切に感じられた。
「今、健人くんがどうしているか、知りたい?」
クラフト市を出たあと、館内の展示室の前で、明莉はふと切り出した。心の準備をしてきたつもりだったが、実際に口にすると、思ったより声が強張っていることに、自分で驚いた。穂乃香は少し驚いたような顔をした。展示室の扉はぴったりと閉じていて、中から漏れる音は何もなかった。廊下を歩く来館者の足音だけが、遠くから響いていた。
「明莉は、知りたい?」
「今は、知らないままでいたい。明莉は?」
その問いに、明莉は少し考えてから答えた。健人のことを思い出すと、まだ胸の奥に小さな痛みが疼いた。それでも、その痛みは、以前よりずっと穏やかなものになっていた。時間が、少しずつその痛みを丸くしていってくれているようだった。
「私も、同じ」
二人は、健人について、それ以上何も話さなかった。相手のために話さないのではなく、自分自身のために、今は知らないままでいることを選んだ。その選択を、二人は自然に共有していた。いつか、健人の話題を自然に話せる日が来るのかもしれない。ただ、今はまだ、その時ではなかった。
二月、寒さが最も厳しい頃、二人は美術館近くのカフェ・ルミエールで、窓際の席に座った。初夏に三人で座った場所から、そう遠くない席だった。運ばれてきたホットチョコレートの湯気が、二人の間でゆっくりと立ち上っていた。窓の外には、灰色の雲が低く垂れ込めていた。店内には他の客がまばらで、静かな時間が流れていた。カウンターの奥から、コーヒー豆を挽く音が、規則正しく響いていた。
「あの日、もう好きだった?」
明莉は、思い切ってその問いを口にした。三人で初めて会った、あの食事会の日のことだった。ずっと聞きたくて、聞くのが怖かった問いだった。穂乃香は、少しの沈黙のあと、まっすぐに答えた。
「うん。認めたくなかったけど」
その答えに、明莉は痛みを感じた。それでも、席を立つことはしなかった。穂乃香も、答えを和らげることはしなかった。痛みを伴う事実を、そのまま受け止め合う。それが、今の二人にできる、一番誠実なやり取りだった。
「いつから、って聞いても、多分正確な答えはないんだよね」
穂乃香が、ぽつりと付け加えた。カップの中のホットチョコレートを、ゆっくりとかき混ぜながら、視線をテーブルに落としていた。
「うん、それでいい。日付が知りたいわけじゃないから」
明莉はそう答えた。知りたかったのは、日付ではなく、穂乃香が自分の気持ちに、どう向き合ってきたかという、その過程そのものだった。数字や日付を並べても、人の心の動きは説明しきれない。仕事を通して学んだそのことを、明莉はこんな形で、もう一度実感していた。
「痛い?」
穂乃香が尋ねた。その問いには、これまでのような言い訳がましさが、まったく感じられなかった。ただ、明莉の気持ちを、まっすぐに知ろうとする響きだけがあった。
「うん、痛い。でも、聞けてよかった」
明莉は正直にそう答えた。窓の外を見ると、雪がまた降り始めていた。窓ガラスに映る二人の姿は、初夏の頃とは違う距離で、隣り合って座っていた。あの日、健人を挟んで座っていた三人の位置関係を、明莉はふと思い出した。今は、その位置に、健人はいない。その事実を、寂しいとも、当然だとも、明莉は割り切れずにいた。ただ、今この瞬間、正直な言葉を交わせている穂乃香がいることだけが、確かな救いだった。
「それと、謝りたいことがある」
明莉が続けると、穂乃香はスプーンから手を離した。
「あの夜、健人くんが私の告白を受けたことまで、穂乃香のせいにした。あれは違った。告白を受けると決めたのは健人くんだし、確かめずに進んだのは私。穂乃香が言わなかったことに傷ついた気持ちとは、分けて考えなきゃいけなかった」
「でも、私が黙っていたことで、明莉を苦しませたのは本当だよ」
「うん。それは今も痛い。でも、全部を一人で背負わせたくない。私も、自分が選んだことを引き受けたい」
穂乃香はすぐには答えず、両手でカップを包み直した。やがて「ありがとう」と言った。その声を聞いても、明莉の痛みが消えたわけではない。ただ、二人の間に置かれていた責任の重さが、ようやく正しい場所へ分け直されたように思えた。
三月に入り、雪が少しずつ解け始めた頃、二人は広坂の歩道を並んで歩いていた。街路樹の枝に、まだ雪の欠片が残っている。歩道の脇の側溝には、解けた雪水が音もなく流れていた。近くの美術館の前を、観光客のグループが通り過ぎていった。空気にはまだ冬の冷たさが残っていたが、日差しの中には、確かに春の兆しが混じり始めていた。
「また黙ってるって思ったら、聞くから」
明莉がそう言うと、穂乃香は頷いた。歩道の敷石を踏む足音が、二人の間の沈黙を優しく埋めていた。
「聞かれなくても言う。遅くなる前に」
「私も、約束する」
明莉がそう付け加えると、穂乃香は少し驚いたように振り返った。街灯の明かりが、少しずつ灯り始めている時間帯だった。
「明莉が黙ることなんて、ある?」
「あるよ。今回だって、最初は何も言えなかった」
歩道の途中、バス停に差し掛かった。ちょうど、駅へ向かうバスが到着したところだった。ドアが開き、数人の乗客が降りてくる。運転手が、乗るかどうかを確かめるように、こちらへ視線を向けた。
「乗る?」
穂乃香が尋ねた。明莉は少し考えてから、首を振った。
「もう少し歩こう」
「歩くの、久しぶりだね、こうやって」
穂乃香がぽつりと言った。街路樹の枝が風で揺れ、残っていた雪の欠片がはらはらと落ちていった。
「うん。急がなくていいって、いいね」
バス停を離れて歩きながら、ふと、水引のピアスを選んだ初夏の午後がよみがえった。あの日、まだ何も知らなかった二人は、ただ楽しく、ピアスの色を選び合っていた。穂乃香が試作品を耳に当てて、鏡の前で何度もポーズを変えていた姿を、明莉は今でも鮮明に覚えている。それでも、明莉はその記憶を、今の二人を見直すための、一つの手がかりとして胸に置いた。
三月の終わり、春の気配が漂い始めた頃、二人は並んで街を歩いていた。乾いた風が、頬を柔らかくなでていく。薄い日差しの中、二人の影が、離れては重なりながら、歩道の上を伸びていた。街路樹の枝先には、小さな新芽が膨らみ始めている。桜の開花には、まだ少し早い季節だった。道端の花壇には、チューリップの芽がわずかに顔を出していた。冬の間、じっと耐えていたものが、ようやく動き出そうとしている。その気配が、明莉の心にも、そっと重なっていくようだった。
「前と同じには戻らなかったね」
明莉がそう言うと、穂乃香は少し寂しそうに、けれど穏やかに頷いた。歩道の先に見える桜並木は、まだ蕾のままだった。
「うん。でも、前より本当のことを言える」
「寂しくない? 前みたいには戻れなくて」
明莉が尋ねると、穂乃香はしばらく考えてから答えた。答えを急がず、言葉を選ぶその姿勢そのものが、以前の穂乃香とは違って見えた。
「寂しいよ、正直。でも、今のほうが、明莉のことをちゃんと見れてる気がする」
「見れてる、って?」
「前は、明莉の機嫌とか、明莉が求めてることばっかり気にしてた。今は、明莉が本当はどう思ってるのか、ちゃんと聞こうとしてる」
「私も、変わったと思う?」
明莉が尋ねると、穂乃香は少し考えてから答えた。街灯の光が、少しずつ二人の周りを照らし始めていた。
「うん。前より、はっきり物を言うようになった。良い意味で」
「それ、健人くんにも同じこと言われた」
明莉がそう言うと、二人は一瞬、目を見合わせた。健人の名前を、こんなふうに軽く口にできる日が来るとは、少し前まで想像もしていなかった。けれど、今のこの瞬間、その名前は、以前ほどの重さを持たずに、二人の間を通り過ぎていった。
明莉は穂乃香の袖を掴まなかった。穂乃香も、明莉の歩幅に無理に合わせようとはしなかった。それでも、二人は同じ方向へ、並んで歩き続けていた。互いの間に流れる沈黙は、以前のように気まずいものではなく、ただ、それぞれの考えを整理するための、穏やかな時間になっていた。
来月店頭に並ぶ柚子菓子のパッケージには、「隠さない酸っぱさ、隠さない甘さ」というコピーを添えた。何度も書き直した末に、明莉が自分で選んだ言葉だった。
角を曲がる前、穂乃香が歩幅を緩めた。明莉も何も言わず、その速さに合わせた。離れては重なる二人の足音が、春を待つ街の中へ溶けていった。




