9話『私はもう、あなたがいなくても幸せです』
応接室は静まり返っていた。
窓から差し込む午後の光だけが、淡く床を照らしている。
その中央に、王都からの使者が立っていた。
「王都より正式通達です」
差し出された封書には王家の紋章。
それを見るだけで胸の奥が重くなる。
「エレノア・フォン・アスティリアに対し、王都への帰還を命ずる」
静かな声だった。
だが、その内容は命令そのものだった。
私は封書を受け取る。
紙は乾いているはずなのに、ひどく冷たく感じた。
「理由は?」
気付けば尋ねていた。
使者は迷いなく答える。
「国家機能維持のためです」
その瞬間。
胸の奥で何かが冷えた。
国家機能。
また、その言葉だ。
私ではない。
私の意思でもない。
必要とされているのは、私という人間ではなく――私が果たしていた役割。
ただの機能。
ただの部品。
その時だった。
外から馬の嘶きが響く。
続いて騎士たちのざわめき。
私は反射的に窓へ視線を向けた。
「まさか……」
王家の旗。
そしてその中央に立つ一人の男。
王太子アスラだった。
◇
数分後。
応接室の扉が開く。
入ってきたアスラを見た瞬間、私は言葉を失った。
痩せていた。
目の下には濃い隈。
頬もこけている。
かつて自信に満ちていた王太子の面影は薄かった。
「エレノア」
名前を呼ばれる。
昔なら、それだけで胸が高鳴った。
少しでも優しく呼ばれた日は、それだけで幸せだった。
けれど今は違う。
「頼む」
アスラは頭を下げた。
深く。
本当に深く。
それほどまでに王国は追い詰められているのだろう。
「国が限界なんだ」
震える声だった。
「税務も外交も地方行政も回らない。誰も判断できない。誰もエレノアの代わりにはなれなかった」
拳を握り締める。
「だから――」
私は静かに問い返した。
「国のために?」
アスラが言葉を詰まらせる。
「それは……」
「それとも」
自分でも驚くほど穏やかな声だった。
「あなたのためですか?」
アスラは答えられなかった。
「エレノア――」
苦しそうに私を見る。
「最近になって知ったんだ」
震える声だった。
視線が落ちる。
「お前が毎日どれだけ働いていたのか、どれだけ無理をしていたのか……」
私は黙って聞いていた。
「外交文書も、税制改革も、地方監査も、王都の混乱を抑えていたのも。全部お前だった」
アスラは拳を握り締める。
「徹夜で書類を整理していたことも知った。睡眠時間を削っていたことも知った。手が傷だらけになっていたことも」
声が掠れる。
「どうして俺は気付かなかったんだ」
その言葉を聞いても、胸は動かなかった。
ただ一つだけ思う。
――遅い。
本当に遅い。
「三年です」
私は静かに口を開いた。
アスラが顔を上げる。
「私は三年間、あなたの婚約者でした」
応接室が静まり返る。
「その間、一度でも私を見てくださいましたか?」
沈黙。
返事はない。
それが全てだった。
「私は認めてほしかったんです」
胸の奥が少しだけ痛む。
「褒めてほしかった。必要だと言ってほしかった。頑張っていると、一言だけでも言ってほしかった」
ずっと心の奥にしまっていた言葉。
もう届かないと分かっている言葉。
「ただ、それだけでした」
アスラの顔が歪む。
「エレノア……」
「ですが」
私は首を横に振った。
「あなたが見ていたのは私ではありません」
静かな声だった。
「あなたが必要としていたのは私の仕事です。私自身ではありません」
「違う!」
アスラが叫ぶ。
初めて感情を露わにした。
「違うんだ!」
けれど私は静かに見つめ返した。
「私はもう」
首を横に振る。
「あなたに必要とされたいとは思いません」
息を呑む音が聞こえた。
「今の私は」
窓から差し込む光を見る。
「あなたがいなくても幸せです」
その瞬間――
アスラの顔から血の気が引いた。
その時だった。
隣に立つキリアが一歩前へ出る。
空気が変わる。
「王太子殿下」
低く落ち着いた声。
「あなたは勘違いをしています」
アスラが睨む。
「何だと」
「彼女は国家機能ではありません」
迷いのない声だった。
「一人の女性です」
沈黙。
誰も口を挟めない。
「殿下は彼女を失ってから価値に気付きました」
蒼い瞳が真っ直ぐアスラを見据える。
「ですが彼女は、価値を証明するために生きていたのではない」
さらに一歩前へ出る。
「あなたは彼女を捨てた」
「ならば今さら返せとは言わせません」
応接室の空気が張り詰める。
「彼女は自分の意思でここにいる。その意思は誰にも奪えない」
静かな宣言だった。
「私は彼女の選択を守ります」
その言葉に胸が震えた。
守る。
あの日も言ってくれた言葉。
そして今も変わらない言葉。
アスラは何も言えなかった。
もう理解してしまったからだ。
失ったのは有能な補佐ではない。
便利な人材でもない。
婚約者でもない。
自分を誰よりも想い、支えてくれていた女性だった。
その事実に。
失ってから初めて気付いた。
やがてアスラは俯いた。
拳を握り締める。
けれど、もう遅い。
その後悔も。
その謝罪も。
その願いも。
もう届かない。
「帰りましょう」
私は静かに言った。
キリアが小さく頷く。
そして二人で歩き出す。
背後から声が聞こえた気がした。
けれど私は振り返らない。
もう私の未来は前にしかなかった。
――その時だった。
応接室の外から慌ただしい足音が響く。
「ご報告です!」
騎士が血相を変えて飛び込んできた。
「王都で大規模暴動が発生しました!」
その瞬間、全員の顔色が変わった。
王国の崩壊は、誰の目にも見える形で始まろうとしていた。




