10話『元婚約者が泣いて謝っても、もう遅い』
「王都で暴動拡大! 税務局は機能停止! 役所は封鎖されています!」
騎士の声が廊下を走る。
その声は焦っているのに、どこか現実味がなかった。
まるで遠い国の話を聞かされているようだった。
ただ一人だけが、それを現実として受け止めている。
アスラ王太子。
だがその肩書は、すでに形だけのものになっていた。
「……戻ってくれ」
声は掠れていた。
命令ではない。
祈りだった。
「戻ってくれ、エレノア……!」
一歩、踏み出す。
その動きは遅い。
重い。
何かに追いつこうとして、追いつけない人間の歩き方だった。
「国が……もう持たない……」
そこで言葉が途切れる。
それ以上言えば、自分が崩れると理解していた。
私は、その姿をただ見ていた。
怒りはない。
悲しみも、すでに遠い。
ゆっくりと目を伏せる。
ほんの一瞬だけ。
そして、終わらせる。
「そうですか」
それだけだった。
その瞬間、過去は閉じた。
アスラの顔が歪む。
「待ってくれ……!」
叫ぶような声。
だがそれは届く言葉ではなく。
失ったことを確認する声だった。
その横で、キリアが一歩前へ出る。
空気が変わる。
静かに、しかし確実に。
「王太子殿下」
低い声。
揺らぎがない。
「あなたの役割は、すでに終わっています」
アスラの目が鋭くなる。
「な、なんだと……!」
まだ“王太子”という形だけが残っている。
キリアはそれを見ていない。
「彼女は戻る対象ではありません。選んだ側です」
その言葉で、世界の構造が変わる。
“呼び戻す側”と“戻る側”という関係が、ここで崩壊する。
アスラの顔がわずかに歪む。
理解ではない。
崩壊だった。
「俺は間違っていたんだ……!」
初めて、本音が零れる。
遅すぎる本音だった。
「全部知ったんだ……!」
一歩、また一歩。
だが距離は縮まらない。
「お前がどれだけ……!」
そこで言葉が切れる。
それ以上は、自分の罪になると気付いたからだ。
その沈黙の中で、私は静かに言った。
「もう遅いです」
たった一言。
刃ではない。
裁きでもない。
ただの“結果”だった。
アスラの動きが止まる。
「エレノア……」
その呼びかけは、もう名前ではなかった。
過去を呼ぶ音だった。
そのとき、キリアがもう一歩前へ出る。
「王都は崩れています」
淡々とした声。
「原因は彼女の不在ではありません――依存です。あなたは失ってから、それに気付いた。ですが……」
断定だった。
そこに余白はない。
「彼女はすでに選んでいます」
一瞬の間。
そして言い切る。
「あなたではない側を」
その言葉で、アスラの中の何かが完全に折れる。
音はしない。
ただ、形だけが崩れた。
誰も動かない。
やがて、私は背を向けた。
迷いはない。
キリアが並ぶ。
距離が近い。
しかし、触れない。
それは意味のある距離だった。
「終わったな」
キリアが言う。
背後で何かが崩れる音がした。
それでも二人は振り返らない。
歩きながら、キリアが低く言う。
「戻れなくなりましたね」
私は答えずに。
ただ前だけを見ていた。
その視線の先にあるものが、まだ何かは分からない。
ただ一つだけ確かなことは――
もう、後戻りはできないということだけだった。




