6話『あなたがいなくなったからです』
辺境伯領に来て、一週間が過ぎた。
その間、驚くほど何も起きなかった。
朝は穏やかに始まり、食事は温かく、誰も私を責めない。
ただそれだけのはずなのに――胸の奥はずっと落ち着かなかった。
(私は……ここにいていいの?)
その問いだけが、静かに残り続けている。
役目がないことが、こんなにも不安だなんて思わなかった。
必要とされないことが、こんなにも怖いなんて。
コン、コン、と扉が鳴る。
「エレノア様」
侍女のリズが控えめに入ってくる。
「孤児院から、読み書きと簡単な行政整理を手伝っていただける方が不足しているとのことです」
その言葉に、私はわずかに息を止めた。
孤児院。
私が得意としていた領域。
なのに、反射的に心が揺れる。
(私が行っていいの?)
役に立つことですら、もう怖い。
そのときだった。
「行けばいい」
低い声。
振り返ると、キリアがいた。
いつからそこにいたのか分からない。
ただ当然のように、そこにいる。
「迷うなら行かなくていい。行きたいなら行けばいい。それだけです」
命令でも評価でもない。
ただ“選択”だけを置いていく声だった。
私は小さく頷いた。
「……行ってみます」
その瞬間、キリアの目がわずかに細くなる。
それ以上は何も言わない。
ただ、それで十分だと言うように。
孤児院は静かだった。
最初、子どもたちは距離を取る。
「貴族だ……」
「怖い人?」
その言葉に胸が刺さる。
けれど、今は違った。
私は机に座り、静かに言う。
「今日は一緒に勉強しましょう」
誰も近づかない。
それでも、一人の少年が紙を握っていた。
解けない問題。
唇を噛む癖。
(昔の私と同じ)
私は隣に座る。
「ここはね、こう考えるの」
ゆっくり、ほどくように教える。
やがて小さな声が弾けた。
「できた!」
その瞬間、胸の奥がわずかにほどける。
(あ……)
嬉しい、という感情。
それを忘れていたことに気付く。
そのときだった。
外がざわつく。
「エレノア様!」
騎士が駆け込んでくる。
「王都で異変が起きています!」
空気が一瞬で変わった。
◇
王都。
税務局の机には書類が山積みになっていた。
「処理が……終わらない!」
「誰も判断できないのか!」
数字が止まり、命令が止まり、仕組みが止まる。
それは崩壊ではなく、“遅延”だった。
だが遅延は、やがて崩壊に変わる。
◇
「孤児院の支援金が止まりそうです」
騎士の声が震えていた。
「教育予算、医療補助、すべて未承認です」
子どもたちが静かになる。
その沈黙の中で、小さな声が落ちる。
「……ごはん、なくなるの?」
私は息を詰めた。
そのときだった。
「混乱ですね」
キリアがそこに立っていた。
誰よりも冷静に、誰よりも静かに。
「ここは問題ありません」
そう言い、役人を見た。
「問題は王都の方です」
その一言で、空気が凍った。
◇
次の日――
市場では怒号が上がっていた。
「税が上がってるぞ!」
「聞いてない!」
秩序は、ある日突然ではなく、“気付かない速度”で崩れていく。
そしてそれはもう止まらない。
馬車の中で、私は小さく呟いた。
「王都は……どうなるんですか」
キリアはすぐには答えなかった。
窓の外を見たまま、淡々と言う。
「止まってはいません」
「……え?」
「崩れ始めただけです」
その言葉が、妙に現実的だった。
怖いのに、どこか納得してしまうほどに。
私は拳を握る。
「どうして、こんなことに……」
キリアは初めてこちらを見た。
その瞳には感情がない。
ただ事実だけがあった。
「あなたがいなくなったからです」
それ以上でも、それ以下でもない。
「国は壊れていません」
彼は言う。
「重心を失っただけです」
「重心……」
「中心がないものは、形を保てません」
私は息を呑む。
それは恐怖にも似ていた。
けれど同時に――
どこかで理解してしまう自分がいる。
キリアは静かに続けた。
「あなたがいた位置へ、戻ろうとしているだけです」
その言葉に、胸の奥が冷たくなる。
(私が……中心?)
そんなはずはない。
私はただの補佐で、ただの令嬢で、ただの――捨てられた存在だった。
なのに。
「エレノア」
名前を呼ばれる。
それだけで、心が揺れる。
「あなたがここにいる限り、この場所は崩れません」
少し間を置いて。
「だから戻る必要はありません」
風が止まった気がした。
優しい言葉のはずなのに。
なぜか、逃げ道だけが静かに消えていく。
私はまだ知らない。
この優しさが救いなのか。
それとも――
最も静かな檻なのかを。




