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婚約破棄された悪役令嬢ですが、王国が私を失って崩壊しました。英雄辺境伯に攫われて溺愛されています  作者: 夜炎 伯空


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5話『ここから消えないでください』

「――エレノア様がいるだけで、ここは本当に落ち着きますね」


 市場の商人の何気ない一言に、私は思わず手を止めた。


(私が……いるだけで?)


 その言葉は、王都では一度も向けられなかった種類のものだった。


 褒められているのだと分かるのに、胸の奥が落ち着かない。


 嬉しいはずなのに、どこか怖い。


 その矛盾が、辺境伯領での“日常”だった。


 ここでの暮らしは、あまりにも整いすぎている。


 朝は決まった時間に扉が叩かれ、食事は温かく整えられ、庭には季節の花が揺れている。


 人々は穏やかで、誰も私を責めない。


 誰も、否定しない。


(なのに、どうしてこんなに落ち着かないの)


 静かすぎる。


 優しすぎる。


 その“過剰な安定”が、心を落ち着かなくさせていた。


   ◇


「エレノア様、本日は市場へ出られてはいかがでしょう」


 侍女のリズは、まるでそれが最初から決まっていたかのように言った。


 気を遣う様子も、探る視線もない。


 ただ“当然の提案”としてそこにあった。


「……ええ、少しだけ」


 馬車を降りた瞬間、世界の匂いが変わった。


 焼きたてのパン。


 果物の甘い香り。


 人々の笑い声。


 王都では遠くに押し込められていた“生活そのもの”が、そこにあった。


(こんな世界が……本当にあったのね)


 そう思った、その瞬間だった。


「わっ……!」


 小さな悲鳴。


 視線を向けると、少女が転んでいた。


 気付いた時には、すでに身体が動いていた。


「大丈夫?」


 手を差し伸べると、少女はすぐに笑った。


「ありがとう、お姉ちゃん!」


 その言葉に、胸の奥がふっと緩む。


(ありがとう……)


 王都では一度も向けられなかった言葉。


 その瞬間、背中に視線を感じた。


 振り返る。


 通りの影。


 黒い外套の男。


 キリアだった。


 彼は近づかない。


 声もかけない。


 ただ、そこに“いることが当然”のように立っている。


 そして私と目が合った瞬間、何事もなかったように視線を外した。


 まるで確認だけして消えたように。


   ◇


 帰りの馬車の中。


 少女から渡された小さな刺繍の栞を見つめる。


 たったそれだけの贈り物なのに、胸が落ち着かない。


 嬉しい。


 なのに、怖い。


(どうして……こんなに)


 安心していいはずなのに、心だけがそれを拒んでいる。


 理由が分からないまま夜を迎えた。


 その夜、夢を見た。


 王都の大広間。


 嘲笑、拍手。


 そして妹の声。


「お姉様は、最初から必要とされていないの」


 逃げても終わらない。


 目を閉じても、音は続く。


「違う……!」


 声は届かない。


 そこで目が覚めた。


 息が乱れている。


 暗い部屋が、やけに広い。


 怖い。


 ここにいるのに、どこにもいない気がする。


 私は気付けば、部屋を出ていた。


   ◇


 庭には月光が落ちていた。


 花が静かに揺れている。


 そこに、彼がいた。


 キリア。


 まるで最初からそこにいるのが当然だったように。


「……どうして」


 声が漏れる。


 彼は答えない。


 ただ隣に立つ。


 沈黙。

 

 それだけで、呼吸が少しずつ戻っていく。


 やがて私は小さく呟いた。


「最近……怖いんです」


 キリアは視線を動かさない。


「ここが……優しすぎて」


 喉が詰まる。


「また全部、なくなる気がして」


 風が一度だけ揺れた。


 そして彼は静かに言った。


「それは正常です」


 顔を上げる。


「正常……?」


「失った人間は、そうなります」


 慰めではない。


 否定でもない。


 ただの事実だった。


 それが、なぜか一番落ち着いた。


 キリアは続ける。


「無理に信じる必要はありません。今はまだ、その段階ではない」


 夜風が通り抜ける。


 その言葉に、胸の奥の張り詰めが少し緩んだ。


(信じなくていい……)


 涙が滲む。


 キリアは空を見たまま続けた。


「怖いままでいい。それでも構いません」


 そして視線だけをこちらへ向ける。


「ただ一つだけ」


 空気が変わる。


「ここから消えないでください」


 それは命令ではなかった。


 拘束でもない。


 願いですらない。


 “前提”のような言葉だった。


 逃げ道を静かに塞ぐ響き。


「あなたがここにいる理由は、まだ終わっていません」


 少し間を置いて。


「それだけです」


 涙がこぼれた。


 責められた涙ではない。


 許された涙だった。


   ◇


 その頃、王都では異変が起きていた。


 王城の執務室。


 書類が滞り始める。


 判断が遅れる。


 今まで見えなかった“穴”が一斉に浮かび上がる。


「エレノア様の引き継ぎが……想定以上です!」


「政務が回りません!」


「外交処理が停止しています!」


 アスラの顔色が変わった。


「……セシリアは?」


 沈黙。


 そして返答は一つだった。


「何も……できておりません」


 その瞬間、初めて理解する。


 あの少女がどれほどのものを支えていたのかを――


   ◇


 ――夜。


 屋敷の執務室でキリアは窓の外を見ていた。


 庭の中心に、彼女がいる。


 それだけで、この場所は形を持ち始める。


「ここにいる」


 それは確認ではなく事実だった。


 揺らぐことのない事実。


 キリアは静かに目を細める。


「これでいい」


 誰にも届かない声で呟く。


「もう壊れない」


 風が揺れた。


 その言葉だけが、夜に残った。

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