4話『あなたはここにいる。それだけでいい』
婚約破棄から数日――
辺境伯邸で迎える最初の朝だった。
目を開けた瞬間、自分がどこにいるのか分からなかった。
天蓋のある寝台。
柔らかすぎる寝具。
窓から差し込む、穏やかな光。
(……ここは)
ゆっくりと現実が戻ってくる。
婚約破棄。
追放。
家族からの切り捨て。
そして、この屋敷。
胸の奥がわずかに沈む。
それなのに――
不思議なほど、息が詰まらない。
王都では、朝が来るたびに気を張っていた。
今日も失敗しないように。
今日も責められないように。
そうやって呼吸していた。
今は違う。
ただ、朝が来ている。
それだけだった。
コン、コン。
「失礼いたします」
扉が静かに開く。
「エレノア様、おはようございます。朝食のご用意ができております」
入ってきた侍女は、初対面なのに自然だった。
探る目も、値踏みもない。
ただそこに“当然の礼”があるだけ。
「……ありがとう」
そう返すと、侍女は微笑んだ。
それもまた当然のように。
(……変なの)
胸の奥に、小さな違和感が残る。
だが不快ではなかった。
むしろ、その違和感のなさが落ち着かなかった。
食堂へ向かうと、長いテーブルの奥にキリアがいた。
すでにそこに“いるのが当然”のように座っている。
「おはようございます」
「……おはようございます」
視線が合う。
そこには評価も、探りもない。
ただ静かに「いる」と認識するだけの目。
「こちらへどうぞ」
示された席は、遠すぎず近すぎない位置だった。
迷いのない距離。
計算されたような自然さ。
(最初から決めていたみたいな距離感……)
そう思った瞬間、自分の考えを振り払う。
「食欲はありますか」
「少しなら」
「十分です」
即答だった。
そこに迷いはない。
料理が運ばれてくる。
会話は少ない。
だが沈黙は重くない。
キリアは王都の話をしない。
婚約破棄にも触れない。
ただ淡々と領地の報告をする。
「今年の収穫は安定しています」
「橋の補修は終わりました」
「治安も落ち着いています」
それは“報告”というより、“日常”だった。
(この人、本当に戦場の英雄なの……?)
目の前の男は、あまりにも穏やかだった。
◇
食後、私は庭へ出た。
風が通る。
花が揺れる。
遠くで子どもの声がする。
王都では聞こえなかった音。
ただの生活の音。
その中でキリアは庭師と短く言葉を交わしていた。
「無理はするな」
「足りなければ人を回す」
命令ではない。
押しつけでもない。
ただ“当然の気遣い”。
それが、なぜか一番落ち着かない。
視線に気付いたキリアが振り返る。
「顔色が良くなりましたね」
ただそれだけ。
それだけのはずなのに、胸の奥が揺れる。
思わず一歩引いた。
理由は分からない。
けれど近づくのが怖い。
「……私に構わない方がいいです」
言葉がこぼれた。
「私はもう、何も持っていません」
一瞬、風が止まった気がした。
だがキリアは否定しなかった。
怒りもしない。
ただ静かに言う。
「持っているかどうかは関係ありません」
まっすぐな声だった。
「あなたはここにいる。それだけです」
その言葉は、優しさではなかった。
事実のような宣言だった。
逃げ道のない、ただの定義。
(……ここにいる、だけ)
胸の奥が静かに沈む。
だが不思議と、拒絶したいとは思わなかった。
◇
昼過ぎ。
部屋に戻る。
窓の外には市場の気配。
笑い声。
足音。
生活の音。
(私は……ここにいていいの?)
王都では常に役割があった。
婚約者、補佐。
そして、悪役令嬢。
それが正しいかどうかは別として、“位置”はあった。
今は、それがない。
なのに。
誰も追い出さない。
誰も否定しない。
ただ“そこにいる”ままにされている。
それが、怖いほど静かだった。
コン、コン。
「旦那様が今夜の食事をご一緒したいと」
「……分かりました」
断る理由はなかった。
食堂は静かだった。
キリアがふと口を開く。
「ここでは、あなたの時間に干渉する者はいません」
一見すれば優しい言葉。
だが違う意味も含んでいる気がした。
干渉されない。
つまり――
(ここは外と切り離されている)
守られている。
けれど同時に。
外へは簡単に戻れない。
その事実に気付いた瞬間、胸の奥がわずかに冷えた。
それでも、不思議と逃げたいとは思わなかった。
◇
その夜――
キリアは窓の外を見ていた。
屋敷の中心に彼女がいる。
ただそれだけの事実が、静かに形を持つ。
「ここにいるのが当然だ」
それは願いではなく、認識だった。
そしてその認識は、ゆっくりと固定されていく。
「……もう離す理由はない」
誰にも届かない声だった。




