3話『ようやく、あなたを守れる』
婚約破棄から数日後――
馬車は辺境伯領へと到着した。
窓の外に広がる景色を見ながら、私は小さく息を吐く。
王都とは何もかもが違っていた。
どこまでも続く青空。
豊かな森。
広大な畑。
穏やかな人々の笑顔。
まるで別の世界のようだった。
本来なら感動していたのかもしれない。
けれど今の私の胸を占めているのは、不安ばかりだった。
(どうせ今だけ……そのうち失望される。私は結局、誰にも必要とされない)
父も。
母も。
アスラも。
最初は優しかった。
だから信じてしまった。
だから傷付いた。
もう二度と同じ思いはしたくない。
そう思うのに――
辺境伯の優しさに、少しだけ期待してしまう自分がいる。
それが怖かった。
やがて馬車が止まった。
窓の外を見た瞬間、私は目を見開く。
屋敷の前には騎士たちが整列していた。
使用人たちも並んでいる。
まるで王族でも迎えるかのような光景だった。
「ようこそお越しくださいました」
低く穏やかな声。
私は思わず息を呑んだ。
「長旅でお疲れでしょう」
キリアが手を差し出す。
「足元にお気を付けください」
恐る恐るその手に触れる。
大きな手だった。
温かかった。
不思議なくらい安心できる温もりだった。
その瞬間――
キリアの表情がわずかに緩む。
まるで本当に安心したように。
その顔を見て、胸が少しだけ騒いだ。
「エレノア様、お待ちしておりました」
使用人たちが一斉に頭を下げた。
私は立ち尽くす。
王都では違った。
冷酷な悪役令嬢。
氷の令嬢。
そんな呼び名ばかりだった。
だから信じられない。
誰も私を嫌っていない。
誰も軽蔑していない。
ただ歓迎だけがあった。
胸の奥がじんわりと熱くなる。
すると老執事が前へ出た。
「旦那様は、この日を十年間待ち続けておりました」
私は瞬きをする。
「十年間……?」
「はい」
執事は穏やかに頷いた。
「毎年王都へ人を送り続けましたが、諦めることは一度もありませんでした――」
言葉を失う。
十年。
それはあまりにも長い時間だった。
私自身ですら、自分を見捨てそうになった時間。
なのに。
この人は待ち続けていた。
「余計なことを言わないでください」
キリアが小さく咳払いする。
けれど耳が少し赤い。
私は思わず目を見開いた。
辺境の英雄にも、そんな表情をすることがあるのだと初めて知った。
◇
案内された部屋は驚くほど美しかった。
大きな窓。
柔らかな日差し。
上質な家具。
机には季節の花まで飾られている。
私はそっと花に触れる。
その時だった。
「綺麗……」
気付けば言葉が漏れていた。
そして――
小さく笑っていた。
本当に僅かな笑みだった。
けれど婚約破棄の日から初めてだった。
自分でも気付かなかった。
私はまだ笑えたのだと。
◇
部屋を出ようとしたキリアを呼び止める。
「辺境伯様――」
彼が振り返る。
「なぜ、ここまでしてくださるのですか」
キリアはしばらく黙っていた。
そして静かに言う。
「十年間、想っていたのです。もう二度と失いたくありません」
その声は驚くほど真っ直ぐだった。
胸が大きく跳ねる。
言葉が出ない。
キリアは私から目を逸らさなかった。
蒼い瞳が真っ直ぐ私を映している。
「嵐の夜――絶望していた俺に手を差し伸べてくれた人を……」
胸が熱くなる。
「だから今度は俺の番です」
一歩だけ近付く。
「ようやく、あなたを守れる」
その言葉に涙が滲んだ。
誰かに守ると言われたことなんて、一度もなかった。
◇
その日の夜――
私は窓辺に飾られた花を見つめていた。
王都では気付かなかった花の香り。
柔らかな風。
穏やかな静けさ。
そして気付く。
今日は一度もアスラのことを思い出していないことに。
私は久しぶりに穏やかな気持ちで眠りについた。
婚約破棄の日以来初めて。
誰かを恐れることなく。
誰かに怯えることなく。
◇
そして隣室では――
キリアが眠れずにいた。
十年間探し続けた人が、ようやく同じ屋敷にいる。
それだけで胸が落ち着かなかった。
「……本当に見つけたんだな」
誰にも聞こえない声で呟く。
窓の外を見る。
エレノアの部屋の明かりは、もう消えていた。
キリアは小さく笑う。
「今度こそ」
十年間言えなかった言葉を呟く。
「誰にも渡さない」
その瞳には、十年間積み重ねた想いが静かに宿っていた。




