2話『誰も迎えに来なかった――ただ一人を除いて』
「待て、エレノア!」
再び背後からアスラの声が響いた。
けれどもう振り返らなかった。
三日前までなら違った。
名前を呼ばれるだけで嬉しかった。
少しでも笑いかけてもらえれば、それだけで幸せだった。
でも今は違う。
婚約破棄を宣言したのは彼自身だ。
私を捨てたのも。
信じなかったのも。
全部、彼自身。
私は静かに夜会会場を後にした。
◇
三日後――
「お前は辺境へ行け」
父の執務室でそう告げられた。
驚きはなかった。
婚約破棄された時から覚悟していたからだ。
「キリア辺境伯領へ移れ」
「……分かりました」
私が頷くと、父はわずかに眉をひそめた。
「ずいぶん素直だな」
私は答えなかった。
もう期待していないからだ。
認められたいとも。
愛されたいとも。
思わない。
どれだけ努力しても、私は選ばれなかったのだから。
◇
翌朝。
屋敷の前には馬車が停まっていた。
父が来るかもしれない。
母が呼び止めてくれるかもしれない。
妹だって――
ほんの少しくらいは寂しがってくれるかもしれない。
そんな期待が、まだどこかに残っていた。
けれど。
扉は開かない。
窓も開かない。
誰一人として姿を見せなかった。
本当に最後まで。
誰も来なかった。
「……そうですか」
小さく呟く。
涙は出なかった。
もう出尽くしてしまったのかもしれない。
馬車へ乗り込む。
ゆっくりと王都が遠ざかっていった。
十七年間暮らした場所。
家族がいた場所。
けれど思い出すのは温かな記憶ではなかった。
叱責、比較、失望。
そればかりだった。
胸の奥が空っぽになる。
もう誰にも期待しない。
もう誰も信じない。
そう決めた、その時だった。
馬車が急停止した。
「な、何事ですか!?」
御者の声が裏返る。
窓の外を見る。
黒馬の騎兵たち。
そして先頭に立つ一人の男――
辺境伯キリアだった。
私は息を呑む。
キリアは馬から降りる。
そして迷いなく馬車へ歩いてきた。
扉が開く。
「間に合った」
本当に安心したような声だった。
その一言だけで胸が震える。
「辺境伯様……」
「迎えに来ました」
迎えに来た。
そんな言葉を向けられたことは一度もない。
父にも。
母にも。
婚約者だったアスラにも。
だから私は言葉を失った。
キリアは真っ直ぐ私を見つめる。
「夜会の後、すぐに来るつもりでした」
「ですが、あなたはあまりにも疲れていた」
私は目を見開く。
「だから少しだけ時間を置きました」
その声音はどこまでも優しかった。
「どうして……」
気付けば尋ねていた。
「どうして、そこまでしてくださるのですか」
キリアは静かに答える。
「十年前」
嵐の夜。
倒れていた少年に――私は持っていた食料を渡した。
ただそれだけだった。
「あなたは覚えていなくても構いません。ですが私は忘れたことがない」
胸が大きく揺れる。
「それに」
キリアは少しだけ目を細めた。
「あなたが悪役令嬢だという噂も聞きました」
私は俯く。
やはり知っているのだ。
すると――
「ですが信じませんでした」
顔を上げる。
「私の知るあなたは、人を助ける人です。そんな人が悪人のはずがない」
涙が溢れた。
誰も言ってくれなかった。
誰も信じてくれなかった。
なのにこの人は迷わない。
最初から信じている。
「だから」
キリアは手を差し出した。
「誰もあなたを信じなかったのなら、私が信じます」
胸が苦しいほど熱くなる。
「あなたがどれだけ否定されても、私はあなたを否定しない」
その瞬間だった。
胸の奥で張り詰めていた何かが音を立てて崩れた。
私はずっと我慢していた。
泣かないように。
迷惑をかけないように。
期待しないように。
傷付かないように。
そうやって生きてきた。
けれど。
この人の前では。
もう頑張れなかった。
涙が溢れる。
一粒。
また一粒。
止まらない。
「今度は私が守ります」
震える指でその手に触れた。
温かかった。
優しかった。
私はその手を握り返す。
そして初めて、人前で声を上げて泣いた。
◇
一方その頃――
王城。
「エレノアを呼べ!」
アスラの怒声が響いていた。
「税制改革案が進みません!」
「外交文書が未処理です!」
「地方監査報告も止まっています!」
側近たちの悲鳴が飛び交う。
アスラの顔色が変わった。
「……セシリアは何をしている?」
重い沈黙。
そして返ってきた答え。
「何もできておりません」
アスラは初めて理解した。
王国が回っていた理由を。
だが、その時だった。
執務室の扉が勢いよく開く。
「大変です!」
騎士が飛び込んできた。
「辺境伯がエレノア様を連れて領地へ向かいました!」
アスラの顔色が変わる。
「……何?」
騎士は震える声で続けた。
「すでに王都を出ています!」
アスラの顔色が変わる。
「今すぐ追え!!」
だが騎士は震えながら答えた。
「無理です……辺境伯直属騎士団が護衛しております」
「王国軍でも止められません」
アスラは初めて理解した。
本当に彼女を失ったのだと――




