1話『婚約破棄された瞬間、王国が止まりました』
「税務・外交・地方報告――すべて同時に停止しました」
その報告が上がった瞬間、王城の誰もが理解した。
――この国は、終わったのではない。
たった一人が消えただけで、“動けなくなった”のだ。
エレノア・フォン・アスティリア。
婚約破棄された悪役令嬢。
そして、王国の唯一の中枢だった少女。
◇
「冷酷な悪役令嬢エレノア。本日をもって、君との婚約を破棄する」
王太子アスラの声が、大広間に響き渡った。
一瞬の静寂。
そして次の瞬間――
会場は歓声に包まれた。
「ようやくですわ!」
「殿下のご決断は正しかったのです!」
「これで王国も安泰ですわね!」
拍手、笑顔、祝福の声。
喜んでいないのは、私だけだった。
まるで最初から決まっていた結末を迎えた舞台のように、誰もが当然の結果だと思っている。
私はただ、その中心に立たされていた。
王太子アスラは冷たい目で私を見下ろしている。
そして、その隣には妹のセシリア。
当然のように彼の腕へ寄り添い、勝ち誇ったような笑みを浮かべていた。
胸の奥が冷えていく。
何度も不安になった。
二人の距離の近さに気付かなかったわけじゃない。
それでも私は婚約者だった。
信じたかった。
信じるしかなかった。
だから――
「お前は役目を果たした。それだけだ」
アスラが言う。
「王妃に必要なのは能力ではない。愛嬌だ。お前にはそれがない」
その言葉に会場中が頷いた。
私は昔から笑うのが苦手だった。
感情を表に出すことも得意ではない。
ただ、それだけだった。
それだけなのに――
『冷酷な悪役令嬢』
いつしか私はそう呼ばれるようになった。
「やっぱりね」
「氷の令嬢ですもの」
「殿下がお気の毒でしたわ」
違う。
私は何もしていない。
誰かを傷付けたことなんてない。
そう言いたかった。
けれど、この場に私の言葉を聞こうとする人は一人もいなかった。
昨夜も私は徹夜で王太子の書類を整理していた。
税制改革、外交文書、地方統治の報告書。
睡眠時間は三時間。
それでも構わなかった。
婚約者として支えたかったから。
なのに――
アスラはそんなことを何一つ覚えていなかった。
いや。
最初から見ていなかったのだろう。
「セシリアがお前の代わりを務める」
立ち上がった父が冷たく告げる。
「公爵家に娘は一人いれば十分だ」
背筋が凍った。
「……お父様」
声が震える。
けれど父は私を見ようともしない。
「お前は公爵家の恥だ」
その隣で母も静かに口を開く。
「セシリアの方が、ずっと可愛い娘ですもの」
胸が締め付けられた。
幼い頃から褒められたことはない。
抱きしめられたこともない。
それでも家族なのだから。
最後には信じてくれると思っていた。
けれど違った。
最後まで私を選ばなかった。
妹だけが小さく笑う。
「お姉様」
甘い声。
優しい顔。
けれどその瞳には勝者の愉悦が浮かんでいた。
「殿下は最初から私の方が好きだったのですよ」
悪びれもしない。
罪悪感もない。
ただ当然のことを告げるように。
「だって私の方が殿下に似合うもの」
その瞬間――
胸の奥で何かが切れた。
もういい。
期待するのはやめよう。
信じるのはやめよう。
私は静かに息を吐いた。
「承知いたしました」
自分でも驚くほど穏やかな声だった。
「婚約破棄、受理いたします」
会場がざわつく。
泣き崩れると思っていたのだろう。
縋りつくと思っていたのだろう。
だが私はもう何も望まない。
「それと――本日をもって王太子殿下の政務補佐も辞任いたします」
「……何?」
初めてアスラの表情が変わった。
私は淡々と続ける。
「引き継ぎ資料は全て作成済みです。今後はセシリアがお支えください」
ざわり、と空気が揺れる。
王太子の政務補佐。
本来なら複数の官僚が担当する仕事だった。
だが私は一人でそれをこなしていた。
誰も気付かなかった。
私がいることが当たり前になっていたからだ。
「待て……本気で言っているのか?」
アスラの声が僅かに揺れる。
けれど私は答えなかった。
もう終わったことだから。
私は踵を返した。
もう終わりだ。
そう思った、その時だった。
「――ようやく見つけた」
低い声が響く。
会場の空気が変わった。
全員の視線が一斉に向く。
黒い外套を纏った男。
その存在感だけで空気が張り詰める。
「誰だ、貴様は」
アスラが問い掛ける。
だが男は答えない。
真っ直ぐに私だけを見ていた。
まるで何年も、その瞬間を待ち続けていたかのように。
「十年前……」
男が静かに口を開く。
「嵐の夜、辺境で瀕死だった私を救ってくれた少女」
胸が震えた。
まさか――
「私はずっと、その人を想っていた」
会場がどよめく。
「辺境伯だ……」
誰かが呟いた。
その瞬間、貴族たちの顔色が変わる。
王国最前線を守る無敗の英雄。
戦場で幾度も奇跡を起こした男。
王家ですら軽々しく命令できない存在。
辺境伯キリア。
彼はゆっくりと私の前まで歩み寄る。
そして――
跪いた。
会場中が息を呑む。
王太子も。
公爵も。
誰一人として言葉を発せない。
そんな中、キリアは私だけを見つめていた。
「やっと追いついた」
静かな声だった。
けれど、その言葉だけで胸の奥が震える。
初めてだった。
こんなふうに真っ直ぐ見つめられたのは。
その時だった。
「待て……!」
背後から焦った声が響く。
振り返る。
そこには顔色を変えたアスラが立っていた。
それが――
彼が初めて見せた後悔の始まりだった。




