第9章 その1
ナグン=ヘラスの肥沃な大地に別れを告げ、一行が踏み入れたのは、天を突くように険しい山脈が連なるメイキルクの国土だった。
アルダ村の心尽くしの見送りから数日、街道は岩がちになり、吹き抜ける風の匂いも変わった。
土と草の香りから、鉱石の乾いた匂いと、どこか遠くの鍛冶場から届く石炭の煙の匂いへと。
ワイバーンとの死闘を乗り越えた一行の表情には、かすかな自信の光が宿る一方で、拭い去れない疲労の影もまた落ちていた。
山間の道を抜け、視界が不意に開けた先に、巨大な城塞都市がその威容を現す。
メイキルクの首都、アーバンク。
灰色の城壁は近年になって大規模に補強されたらしく、陽光を鈍く反射する真新しい石材が、この国の緊張を無言で物語っていた。街のいたるところに監視塔がそびえ、城壁の上を規則正しく往復する兵士たちの数は、ナグン=ヘラスのどの都市よりも多い。
まるで街全体が、来るべき戦に備える巨大な砦のようだった。
「これは……壮観だな。国中の職人をかき集めているという噂も、あながち嘘ではなかったようだ」
リアンが楽器のリュートを背負い直し、感嘆とも畏怖ともつかない声を上げた。
城門へと続く街道は、武具や鉄鉱石をうず高く積んだ荷馬車で埋め尽くされている。
その光景は、戦景気という言葉では生ぬるい、狂気じみた熱を帯びていた。
しかし、ルードはその喧騒の奥に潜む不和の音を聞き逃さなかった。
「活気、というには少し違う空気を感じます。まるで、何かに駆り立てられているかのような……焦りのようなものを」
彼の穏やかな声には、確かな懸念が滲んでいた。
その言葉を裏付けるように、城門の脇では、煤けた顔の子供たちが衛兵の厳しい視線に怯えながら、荷馬車からこぼれ落ちる僅かな穀物に手を伸ばそうとしては、追い払われている。
豊かな鉱物資源と引き換えに、この国が何を失っているのか。
その歪みが、一行の目の前に突きつけられていた。
身分証を提示し、重々しい城門をくぐり市街地へと入ると、その印象はさらに強まった。
石畳の道はよく整備されているが、家々の窓は固く閉ざされ、行き交う人々の表情は暗い。誰もが足早に、そして用心深く周囲を窺いながら歩いている。
武具工房からは昼夜を問わず火花が散り、女王クラリスが進める軍拡の熱気が街を覆う一方で、広場の一角には配給を待つ人々の長い、沈黙した列ができていた。屈強な兵士たちの引き締まった体躯とは対照的に、市民たちの手足は痛々しいほど細い。
一行は、比較的大きな通りに面した宿に部屋を取った。
窓の外では、兵士たちの行進する硬質な足音が、市民たちのひそやかな話し声や、時折聞こえる子供の泣き声をかき消していく。
「さて、どう動くか。この性急すぎる軍拡。背後に『深き目の徒』の影を感じるが……」
レンが愛用の長剣に油を塗り込みながら、重々しく口を開いた。
「まずは情報収集ね。この街の噂が集まる場所といえば、酒場か、職人たちが寄り合う市場あたりかしら」
ミアルヴィが猫のようにしなやかな身のこなしで窓枠に飛び乗り、物憂げに尻尾を揺らしながら言った。
その議論の輪から少し離れた場所で、エイリンは窓辺に寄りかかり、ぼんやりと街の喧騒を眺めていた。
その手は、いつからか彼女の癖になったように、ゴブリンから手に入れたペンダントを無意識に握りしめている。
黒く、何の変哲もない飾りのようにも見えるが、時折、彼女の指先でだけ、心臓の鼓動に似た微かな温もりを帯びる気がしていた。
「エイリン、どうかした? 疲れてる?」
フィアが気遣わしげに声をかける。その声に、エイリンははっとしたように振り返り、まるで大切な秘密を見られたかのように、慌ててペンダントを服の下に隠した。
「ううん、何でもない。ただ、少し……考え事」
幼馴染の優しい視線から逃れるように、彼女は曖昧に微笑んだ。
その心の内に、言葉にできない小さな澱が溜まり始めていることに、エイリン自身はまだ気づいていなかった。
翌日、一行は二手に分かれて街の探索を開始した。
リアンとルード、そしてレンは、武具工房や鉱石取引所が集まる職人街へ。フィアとミアルヴィ、そしてエイリンは、日用品や食料を扱う市場へと向かった。
職人街は、街の他の場所とは明らかに違う、暴力的なまでの熱気に満ちていた。
屈強な男たちが汗まみれで槌を振るい、炉の炎が空を焦がす。
しかし、彼らの顔にもまた、過酷な労働による疲労の色は濃い。
「景気は良さそうに見えるが……どうにも、きな臭いな」
リアンが埃っぽい酒場の主人に銀貨を渡し、それとなく探りを入れる。
「景気? ああ、軍の仕事はひっきりなしさ。だが、儲けの大半は税として召し上げられちまう。おまけに、納める武具の質にも、近頃はやけにうるさくてな。何でも、女王陛下直々の命令らしいが……」
主人は汚れた布巾でグラスを拭きながら、うんざりしたように声を潜めた。
「あの若々しい女王陛下、即位されてからもうかなり長いが、一向にお歳を召されん。あれは何か、特別な『力』を使っているに違いねえって、もっぱらの噂さ」
その言葉に、三人は顔を見合わせた。街の誰もが、女王の不自然な若さに疑問と、ある種の畏怖を抱いているらしかった。




