日向丘 妖狐が宿る豆富店
執筆作業で忙しくしている間に夏は終わり、秋風が吹き込んできた。連載中の『死出山怪奇譚』に加えて、『海神の森』の本文や静岡さん自身の物語の『狂想画奇譚』、それから『神々の祭』と『夢幻の華』の取材と執筆をしていたからか、目が回るような日々だった。鬼門さんも、同じように忙しくしていた。
それが一段落した頃だった。相変わらず私は志保の家の一室に籠って執筆を続けている。この家の暮らしには慣れたが何処か落ち付かない。
そんな時、鬼門さんがやって来て、原稿を催促してきた。
「こんにちは、今月分の原稿を取りに来ました!」
最近の作家はデジタル入稿が多い中で、私は未だに原稿用紙で提出しているが、鬼門さんはそれを厭わない。私は、今月分の原稿を鬼門さんに渡すと、次の小説の文章を書こうとした。
「それにしても闇先生、朝晩冷えますね。」
「ああ、そうだね」
「そんな時はおでんが食べたくたりますね。僕は餅巾着が好きで、稲荷豆富店の油揚げを買って手作りしています。」
「へぇ、そうなんだね」
鬼門さんは鞄の中から手紙の束を取り出した。
「最近、ファンレター増えたんですよ。闇先生はそれを全部目を通してますよね?それとSNSのコメントにも返信しているんでしょう?大変じゃないですか?」
「それなんだが苦にはならないよ。寧ろ、色々な方に私の作品を読んで、しかも感想まで書いてくれて嬉しく思ってるよ。」
私はその手紙の束を受け取り、一枚一枚目を通した。
「その中に稲荷豆富店の封筒がありました。それで僕はびっくりしてしまいまして、お知り合いなんですか?」
「ああ、そこの息子さんが私のファンで、一度サイン会で出会ったんだ。」
私は『稲荷豆富店』と書かれてあるその封筒を取り出して、中を見た。確か、出会った子は稲荷崇君だったはずだ。また私の作品を読んでくれたのだろうか。そう思いながら宛先を見ると、そこには崇君ではなく、『稲荷尚』と
書かれてあった。
手紙の本文にはこう書かれてあった。
『拝啓、朝晩冷えますがいかがお過ごしでしょうか。
初めまして。稲荷崇の兄の稲荷尚と申ます。以前のサイン回では弟がお世話になったそうですね。その節はありがとうございます。あれから僕も闇深太郎さんの作品を読みましたが、情景が描かれていて良かったです。
ところで、何故僕がこの手紙を書いているのかと申しますと、最近弟の様子がおかしいからです。お供え物の油揚げを食べてしまったり、女言葉で話出したり、とにかく、普段の崇ではあり得ない事が起こっています。
稲荷家には“ある話”が伝わっていて、それと関係あるのではないかと考え、近所の神社の神主さんにも相談してみましたが、分かりませんでした。そこで、怪奇現象に詳しい闇さんや、その知り合いの『風見の少年』なら弟を助け出せるのではないかと思い、手紙を出しました。忙しい中で無理も承知なのですが、よろしくお願いします。』
私はその手紙から顔を上げて、一言呟いた。
「やれやれ、私は医者じゃないんだがな」
「闇先生、どうされましたか?」
私は執筆途中の原稿用紙を片付けて、手紙を持ちながら支度を始めた。
「稲荷豆富店に出掛けてくるよ。崇君の事が心配だからね。」
「ええ、ですが僕は編集室での仕事がありますので同行は出来ませんが…。」
「お土産に油揚げを買ってくるよ。」
私は鞄を持って外へ出た。そして、駅前のロータリーからバスに乗り込む。
そのバスに乗っている間、私は尚君の手紙を読んでいた。それには稲荷豆富店のパンフレットが同封されている。そこには、稲荷家に代々語り継がれていた伝説だ。
江戸時代の終わり、今は日向丘と呼ばれているこの地に貧乏だが豆腐を造るのが上手い職人豆太郎が居た。彼は、小さな店を開き、豆腐や油揚げを造っていたが、全く繁盛しなかった。
そんなある日、そのお店の前に子狐が現れた。その狐は腹を空かしていて、元気がなかった。そこで豆太郎は、その子狐に売れ残った油揚げを与えた。元気がなかった子狐は、少しずつ元気を取り戻した。
それから豆太郎はその子狐と仲良くなり、貧乏だが幸せな日々を過ごしていたが、ある日を境にその子狐は姿を消してしまった。
それと入れ変わるように現れたのは、若い娘だった。彼女は紅葉と名乗り、豆太郎の店で働きたいと申し出た。
紅葉は店で懸命に働き、それを見た人々は豆太郎の店で豆腐を買っていった。紅葉の頑張りのお陰もあり、豆太郎の店は繁盛し、町一番の豆腐屋になった。
豆太郎はそんな紅葉を大切に思っていた。そんな豆太郎は紅葉の為に御守りの鈴を着けた。
その後二人は夫婦となった。そして、子宝にも恵まれて幸せに暮らしていた。ところが、ある日紅葉は姿を消してしまう。豆太郎は豆腐を造るのも忘れて紅葉を探した。
町中を走り回った豆太郎は、山道で足を止めた。そこには、成獣の狐が倒れている。その狐は、昔助けた子狐によく似ていた。
その狐を抱えた豆太郎は信じられないものを見た。狐の首には豆太郎が紅葉に買ったはずの鈴が着いていたのだ。まさかとは思うが、紅葉の正体は、あの子狐だったのだろうか。豆太郎は、その狐を抱えて近くの神社に駆け込んだ。
そこの神主は、狐の姿を見て驚いていた。紅葉はただの狐ではなく妖だったのだ。どうやら、長いこと人間に化けていた為に力を失っていたようだ。そういえば、紅葉はずっと豆腐屋で働き詰めていた。それを思い出した豆太郎は、紅葉の為に小さな社を豆腐屋の隣に建て、毎日紅葉に油揚げをお供えするようにしたのだ。
そして、商売繁盛の神である稲荷神にあやかって、豆太郎の一族は稲荷と名乗るようになった。
豆太郎亡き後も、その子孫達は社と稲荷豆富店と名前を変えた豆腐屋を大切にしている。いつか紅葉が復活してくれる事を願いながら、今日も豆腐を造っているそうだ。
私は、その話を読み終わり、改めて尚君の手紙を読んだ。恐らくだが、尚君は弟の異変には紅葉が関わっているのではないかと考えているそうだ。
にわかに信じ難い話ではあるが、私自身、妖に憑依された経験がある。現代では認知する者が少なくなったが、妖がこの世界に存在しているのを私は知っている。紅葉の話も本当だろう。
幾つものバスを乗り継いだ先に日向丘があった。そこの日向川沿いに稲荷豆富店はある。そこに入ろうとした時、隣にある稲荷舎に白い子狐が居るのに気付いた。よく見ると、その子には覚えがある。
「あれ、晦君」
「茂さん、どうされました?」
晦君は、『夢幻の華』の宮原町で出会った狐の妖だ。普段は宮原山に居るはずだが、何故ここに居るのだろうか。
「久々に従兄弟に会いに来ましたが、ここには居ないようですね。」
私は、晦君を抱えた。
「一緒に探そうか?丁度私にも尋ね人が居るんだ。」
私は呼び鈴を鳴らして尚君を呼んだ。
「はい、こちらは稲荷豆富店ですが」
「君が手紙をくれた稲荷尚君だね?」
「はい、そうですが…」
尚君は、崇君とは三歳離れた兄で、兄弟はよく似ていた。私は、家の中にお邪魔して、崇君に会いに行った。
「神主さんに相談した時、崇君も連れて行ったのかね?」
「いえ、どうしても行きたくないって聞かなくて…」
「妖に憑依されているなら、神社や神主さんを警戒してもおかしくはないからな…。」
「妖が憑依?そんな事本当にあるのでしょうか?」
伝説の話を私に話した尚君だったが、妖が実際に存在しているのかどうか実感はないそうだ。伝説が本当ならば稲荷家は妖の血を引いているはずなのだが、それが信じられないというのか。
「僕自身は何も感じません。ですが弟は、崇は僕には感じない何かを感じているようです。幼い頃、それでかなり怖い想いをしたうで、それ以降は居ないものと思い込んでいるようです。」
「怖い想いって、何があったんだい?」
「近くの山で迷子になって、その時に何かの声と共に得体の知れないものを見たとその時は言ってました。その一回だけで、それ以降は何もなかったそうです。崇はそれ以来伝説を含めてそういった類の話は信じていません。
それでも、未知のものに興味を持っているのでしょうか。無意識ですが、怪異に対する興味が今もあるようでして、闇先生の話をずっと読んでいるそうです。」
尚君は弟の崇君をずっと心配しているようだった。それも私を呼ぶくらいには。崇君が私の大ファンだというのは知っていたが、まさかそういった背景があるとは思わなかった。
そして、尚君は、ポケットの中からある物を出した。
「僕が神主さんから頂いたこの御札を弟に貼ったのですが、全然効果がなくて…。」
私はその御札を受け取った後、崇君の部屋に入った。
「久し振りだね、崇君」
「誰…?」
崇君は私の事を忘れていた。いや、そんなはずはない。崇君は私の大ファンだ。忘れるはずがない。それに、崇君の声ではなく、女性の声だったような気もする。崇君は私ではなく晦君の方を向いていた。
「お久し振りね、晦君」
「この声は、紅葉さん?」
私は、その崇君の様子を見て確信した。やはり、崇君は妖に憑依されているのだろうか。
「妖に憑依されているんだな」
私は崇君の背中に御札を貼った。すると、崇君の身体から狐が抜け出してくる。
「僕の力では出来なかったのに、どうして…」
「私も妖に憑依されていた時があるからね。それがきっかけで僅かだが霊力を宿しているんだ。」
崇君は意識を取り戻して、私の前に立った。
「あれ、闇先生どうしてここに…?」
「無事で良かったよ、崇君。」
崇君は突然現れた私の姿を見て目を丸くしていた。
「あの狐は…?」
崇君から現れた成獣の狐は、ただの狐ではない。尻尾が四本生えていたのだ。長生きした狐が変化した天狐という妖が居るがそれなのだろうか。その狐は巫女服の姿をした女性の姿になった。
「初めまして、私の子供達」
崇君と尚君にも姿が見えているのか、その方角を見て驚いている。
すると、晦君がその女性の膝に飛び乗った。
「紅葉さん、お久し振りです。」
「紅葉っていう事は、あなたはまさか御先祖様?」
「ええ、そうよ。子供達が社とお店を大切にして、私を忘れずに伝えてくれた。そしたら、私は力を取り戻し、更なる力を得て神妖、神に成れたの。」
稲荷家の伝説にあった紅葉の復活というのはこの事だったのか。そうではないにしろ、紅葉の話はどうやら本当だったようだ。紅葉さんは、私の方を見た。
「あなたは?ここでは見ない顔ね?」
「私は渡辺茂、怪奇小説家だ。晦君とは宮原町で知り合ったんだ。」
先程まで妖や怪異を信じていなかった二人は、紅葉さんと晦君を見て声が出なくなっていた。
「崇君、それに尚君にも紅葉さんや晦君の姿が視えるんだね?」
「はい、喋る狐が二人居るのが分かります。」
二人は二匹の狐を見て目を丸くしていた。
「それにしても、どうして紅葉さんは崇に憑依してたんですか?」
「大した理由は無いの。ようやく復活したから調子に乗ってとしまって、浮世を知りたくて乗り移ってしまって。身体を借りてしまってごめんなさいね。」
紅葉さんが謝るのを見て、崇君は頷いていた。
「いえ、正体が御先祖様で、なんか安心しました。」
「正体が分からない、全容が掴めないものを人は怖がる傾向がある。崇君もきっとそうだったんだね。」
崇君は私の方を向いた。そういえば、今日は急いで向かったからか、着物姿のままだった。
「まさか闇先生も、怪異の一つではないですよね?」
「“幽霊の正体見たり枯れ尾花”、私自身は怪異でも何でもないただの人間なんだがね、時折怪異なのではないかと疑われる時があるよ。」
「闇先生は妖の知り合いも居るんですね!」
私は、晦君を抱えながら頷いた。
「そういえば今日初めて闇先生の本名知りました。以外に普通なんですね?」
「私からして見れば珍しい名字の崇君や尚君が羨ましいけどね。」
「でも、そちらの名前の方が先生らしいですね。」
紅葉は巫女服から割烹着の姿に変わった。
「さて、一階にも挨拶しなきゃね。また豆腐屋の仕事も始めたいし。」
紅葉はそう言って店がある一階に向かった。
そして、紅葉さんは豆富店で働く崇君達のご両親と祖父母に会いに行った。紅葉さんにとっては今まで自分を大切にしてきた子孫達だ。四人も、紅葉さんが実在するとは思わなかったからか、その姿に驚いている。
「驚いた。まさか紅葉さんが本当に居たなんて。」
「またここで働かせて貰えないかしら?」
「御先祖様さえ良ければ大歓迎だよ。」
「ええ、ありがとうございます」
紅葉さんは私に豆腐と油揚げが入ったビニール袋を手渡した。
「あなたみたいな存在は貴重よ。現代でここまで妖の存在を認知して理解してくれる人間は珍しい。晦君は良い友達を持ったわね。」
「紅葉さん、ありがとうございます。」
私は豆腐と油揚げのお代を払うと、晦君を抱えて表に出た。
「また来るよ、崇君、尚君、それから紅葉さん。」
「闇先生、いや、茂さん!今日は色々ありがとうございました!またお手紙出しますね!」
崇君はそう言って私に手を振っていた。
私は崇君達に手を振り返すと、晦君と一緒にバス停まで歩いた。
「茂さん、今日はありがとうございました。また宮原町にも遊びに来てくださいね。」
「ああ、遥君達にもよろしく。」
晦君は、私の腕から飛び降りると、歩いて宮原町まで帰ってしまった。
それから、私は家に帰ると、原稿用紙に小説ではなく、今日の事を日記のように書いていた。毎日ではないが、時々忘れられないような出来事があった時にこうしている。私は、志保が造ってくれた湯豆腐を食べながらそれを進めていた。
それから間もないある日、締め切りではないのに鬼門さんが訪ねてきた。恐らく、お土産を受け取りに来たのだろう。私はビニール袋を鬼門さんに渡した。
「油揚げありがとうございます!そういえば、また稲荷豆富店からお手紙が届いてましたよ。」
鬼門さんは私に封筒を手渡した。宛先は『稲荷崇』と書かれてあった。
『闇深太郎先生、いや、渡辺茂さんでしたっけ。先生はどちらで呼ばれる方が良いですか?
あれから、僕は家族になった紅葉さんと一緒に過ごしています。紅葉さんが目覚めても、稲荷舎の掃除やお供え物は欠かしてません。
自分に霊感がある。それと、妖や幽霊が居ると知ってからは、先生の『死出山怪奇譚』の見方が変わりました。怪異というのは昔から存在し、良い意味でも悪い意味でも人間社会と関わっています。伝説にあるそれをどう捉えるかによってその形は大きく変わってしまいます。紅葉さんも妖、怪異の一種です。紅葉さんがここに宿り、僕達にとって良い存在で居られるのは、御先祖様達がそのように伝え、僕達がそれを守っていったからだと今は思うのです。
僕は将来大学に入って郷土文化を研究するのが夢です。僕達の家にあった伝説のようなものを集めて、それを後世に残したいのです。
僕は兄さんと違って家の跡継ぎにはなりませんが、それでも稲荷豆富店に対する思いは本当です。僕は僕のやり方で家を守っていこうと思います。先生は僕の憧れです。これからも頑張ってください。』
手紙の最後には稲荷豆富店のサイトのURLが載っていた。通信販売を始めたのだろうか。それにしても、崇君が元気そうで安心した。今度は志保や鬼門さんと一緒にあの豆富店に行こうか。
「元気そうで良かったよ、崇君。」
私は手紙を大事に仕舞うと、再び執筆に戻った。