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青崎湾 狂気に堕ちた画家


 私(わたし)は長(なが)い夏(なつ)の暑(あつ)さの中(なか)で執筆(しっぴつ)を続(つづ)けていた。文机(ふみづくえ)の横(よこ)には新(あたら)しく買(か)ったデジタル一眼(いちがん)レフカメラがある。元々(もともと)祖父(そふ)のフィルムの一眼(いちがん)レフカメラを使(つか)っていたのだが、志保(しほ)や編集部(へんしゅうぶ)の人(ひと)がデジタルが良(よ)いと押(お)してきた為(ため)、買(か)ったのだ。デジタル機器(きき)には慣(な)れないが、撮(と)った写真(しゃしん)をすぐに見(み)れる事(こと)と、編集時(へんしゅうじ)にパソコンに取(と)り込(こ)められるのが便利(べんり)だとは思(おも)う。


 

 そんな事(こと)を考(かんが)えていた時(とき)だった。玄関(げんかん)のチャイムが鳴(な)った。扉(とびら)を開(あ)けると、そこには担当編集(たんとうへんしゅう)の鬼門(おにかど)さんが立(た)っている。

 鬼門将(おにかどまさし)さんは私(わたし)よりも年上(としうえ)で、少々(しょうしょう)変(か)わりものだが編集部(へんしゅうぶ)の中(なか)では敏腕(びんわん)編集者(へんしゅうしゃ)だそうだ。私(わたし)が慣(な)れ慣(な)れしく話(はな)しても、それを厭(いと)わない。狂気(きょうき)に陥(おちい)っていた頃(ころ)は感(かん)じなかったが、今(いま)では担当(たんとう)が鬼門(おにかど)さんで本当(ほんとう)に良(よ)かったと感(かん)じる。

「先生(せんせい)、引(ひ)っ越(こ)したなら早(はや)めに教(おし)えてくださいよ!」

「すまないね、鬼門(おにかど)さん」

鬼門(おにかど)さんは、私(わたし)の横(よこ)にある座布団(ざぶとん)に座(すわ)って、鞄(かばん)を開(ひら)いた。

「まさか青波台(あおなみだい)にお住(す)まいになっていたとは驚(おどろ)きました。まぁ、志手山(しでやま)は不便(ふべん)でしたし、良(よ)かったと言(い)えばいいのでしょうか…。」

鬼門(おにかど)さんは、私(わたし)から原稿(げんこう)を受(う)け取(と)った。そしてそれを鞄(かばん)に入(い)れようとした時(とき)、机(つくえ)にあった写真(しゃしん)に気(き)付(づ)いた。

「ところで闇先生(やみせんせい)、写真(しゃしん)の子供(こども)はどなたなんですか?」

「ああ、私(わたし)の息子(むすこ)の優太(ゆうた)だよ。どうやら私(わたし)はその存在(そんざい)を一年以上(いちねんいじょう)知(し)らなかったようだ。今(いま)は可愛(かわ)いがってるよ。」

「一年間(いちねんかん)も自分(じぶん)の子供(こども)を知(し)らなかったなんて、何(なに)やってるんですか…」

「色々(いろいろ)深(ふか)い事情(じじょう)があってな…」

鬼門(おにかど)さんは、信(しん)じられないというような目(め)で私(わたし)を見(み)ると、別(べつ)の鞄(かばん)から手紙(てがみ)の束(たば)を取(と)り出(だ)した。

「今日(きょう)も先生(せんせい)に向(む)けたお手紙(てがみ)が届(とど)いてますよ。その中(なか)に闇先生(やみせんせい)にどうしても会(あ)いたいという方(かた)が居(い)るんです。」

鬼門(おにかど)さんはそう言(い)ってその束(たば)から封筒(ふうとう)を一(ひと)つ取(と)り出(だ)した。

「えっと、静岡圭(しずおかけい)さん、青崎町(あおさきまち)で活動(かつどう)している画家(がか)ですね。」

「青崎町(あおさきまち)って、青崎湾(あおさきわん)にある町(まち)かね?」

「ご存(ぞん)じなんですか?」

「ああ、ある民話(みんわ)が有名(ゆうめい)でいつか行(い)きたいと思(おも)っていたところなんだ。」

「それを調(しら)べる為(ため)にも、静岡(しずおか)さんに会(あ)う為(ため)にも青崎湾(あおさきわん)に行(い)きましょう。」

そうと決(き)まると鬼門(おにかど)さんは家(いえ)から出(で)てしまった。私(わたし)はその手紙(てがみ)を読(よ)んだ。そこには、私(わたし)の小説(しょうせつ)を読(よ)んだ事(こと)。私(わたし)が良(よ)ければ一緒(いっしょ)に仕事(しごと)がしたいという趣旨(しゅし)の話(はなし)が書(か)いてあった。



 その週(しゅう)の中頃(なかごろ)、私(わたし)は鬼門(おにかど)さんと一緒(いっしょ)に電車(でんしゃ)に乗(の)って青崎湾(あおさきわん)へ向(む)かった。鬼門(おにかど)さんと二人(ふたり)でこうして出掛(でか)けるのは初(はじ)めてだった。

「すまないね、鬼門(おにかど)さん、一緒(いっしょ)に出掛(でか)ける事(こと)になってしまって。」

「いえ、闇先生(やみせんせい)とこうして旅(たび)するのを楽(たの)しみにしてましたよ。」

私(わたし)は手帳(てちょう)と万年筆(まんねんひつ)、それからカメラを持(も)って来(き)ていた。それにしても、私(わたし)に会(あ)いたいと言(い)う静岡(しずおか)さんはどんな人(ひと)なんだろうか。調(しら)べてはみたのだが、詳(くわ)しくは書(か)いてなかった。

「ところで先生(せんせい)、青崎湾(あおさきわん)の民話(みんわ)って何(なん)ですか?」

「『海神(わたつみ)の森(もり)』という話(はなし)だよ。この海(うみ)はかつて妖(あやかし)に支配(しはい)されていたんだ。」

『海神(わたつみ)の森(もり)』というのは、神無村(かみなしむら)と呼(よ)ばれていた頃(ころ)の青崎町(あおさきまち)の話(はなし)だ。魚姫(うおひめ)という妖(あやかし)がこの海(うみ)と村(むら)を支配(しはい)していた。人々(ひとびと)はある一族(いちぞく)を生贄(いけにえ)にして、海(うみ)の平和(へいわ)を保(たも)っていた。

 村(むら)は閉(と)ざされ、人々(ひとびと)は外(そと)の様子(ようす)を知(し)らなかった。また、外(そと)の者(もの)は有無(うむ)を言(い)わさず処刑(しょけい)され、生贄(いけにえ)にされていた。

 そんな村(むら)に旅人(たびびと)と姫(ひめ)と侍(さむらい)が現(あらわ)れ、侍(さむらい)が魚姫(うおひめ)を退治(たいじ)した。そして、旅人(たひびと)と姫(ひめ)が町(まち)を造(つく)り、今(いま)の青崎町(あおさきまち)になったそうだ。



 私(わたし)は、それを伝(つた)えると、鬼門(おにかど)さんは携帯電話(けいたいでんわ)の画面(がめん)を見(み)ながら頷(うなず)いた。

「妖(あやかし)の話(はなし)は全国各地(ぜんこくかくち)にありますね。」

「ああ、だから怪奇小説家(かいきしょうせつか)として死出山(しでやま)以外(いがい)にも全国各地(ぜんこくかくち)の物語(ものがたり)を記(しる)し伝(つた)えたいんだ。」

「先生(せんせい)、もうすぐ駅(えき)に着(つ)きますよ。」

電車(でんしゃ)は、ようやく青崎駅(あおさきえき)に辿(たど)り着(つ)いた。私達(わたしたち)はそこに降(お)りて、手紙(てがみ)の地図(ちず)にあった静岡(しずおか)さんのアトリエへ向(む)かう。



 そのアトリエは崖(がげ)の上(うえ)にあった。話(はなし)によるとレストランを改築(かいちく)した建物(たてもの)だそうだ。中(なか)に入(はい)ると、レストランだった頃(ころ)の造(つく)りがそのまま残(のこ)っている。

 すると中(なか)から男性(だんせい)が現(あらわ)れた。私達(わたしたち)よりも年上(としうえ)に見(み)えたその男性(だんせい)は、私(わたし)を見(み)て深々(ふかぶか)とお辞儀(じぎ)をした。

「こんにちは、あなたが闇深太郎(やみしんたろう)先生(せんせい)ですね。」

男性(だんせい)は顔(かお)を上(あ)げてこう言(い)った。

「初(はじ)めまして、僕(ぼく)は画家(がか)の静岡圭(しずおかけい)と申(もう)します。」

すると私(わたし)の前(まえ)に鬼門(おにかど)さんが立(た)ち、名刺(めいし)を取(と)り出(だ)した。

「こちらこそ初(はじ)めまして、闇深太郎(やみしんたろう)の担当編集(たんとうへんしゅう)の鬼門将(おにかどまさし)と申(もう)します!」

「ありがとうございます、頂戴致(ちょうだいいた)します。」

静岡(しずおか)さんは名刺(めいし)を受(う)け取(と)り、私(わたし)を見(み)た。

「お会(あ)い出来(でき)て光栄(こうえい)です。長旅(ながたび)でお疲(つか)れでしょう、ゆっくりしてください。」

私達(わたしたち)は鞄(かばん)を置(お)いてアトリエを見(み)て回(まわ)った。

「レストランをそのまま使(つか)ってるんですね」

「ええ、知(し)り合(あ)いを介(かい)して譲(ゆず)り受(う)けたんです。」

アトリエには、静岡(しずおか)さんの絵(え)が至(いた)る所(ところ)に飾(かざ)られていた。青崎湾(あおさきわん)の風景画(ふうけいが)や、抽象画(ちゅうしょうが)が多(おお)かった。画廊(がろう)も兼(か)ねているのか、値札(ねふだ)が貼(は)られているものもある。

 中(なか)でも素晴(すば)らしいと思(おも)ったのは、風景画(ふうけいが)に混(ま)じってあった人物画(じんぶつが)だった。それには少年(しょうねん)が描(えが)かれている。だが、売(う)り物(もの)ではないのか値札(ねふだ)は貼(は)られていない。

「あの子(こ)は一体(いったい)…」

「息子(むすこ)の智樹(ともき)です。“あの時(とき)”から智樹(ともき)の成長(せいちょう)を絵(え)に残(のこ)そうと心(こころ)に決(き)めているんです。」

「“あの時(とき)”って…?」

「闇先生(やみせんせい)の『風見(かざみ)の少年(しょうねん)』に出(で)てきた青年(せいねん)のように、僕(ぼく)も大切(たいせつ)な存在(そんざい)を失(うしな)って狂気(きょうき)に陥(おちい)っていました。その時(とき)は周(まわ)りが見(み)えてなくて、息子(むすこ)の事(こと)も忘(わす)れていました。だから、この話(はなし)を書(か)いた闇先生(やみせんせい)なら、僕(ぼく)の無念(むねん)や後悔(こうかい)を理解(りかい)してくれるんじゃないかって思(おも)いまして…。」

驚(おどろ)いた。まさか私(わたし)と同(おな)じように狂気(きょうき)に陥(おちい)った者(もの)が居(い)たとは。俄(にわか)には信(しん)じ難(がた)いが、私(わたし)は静岡(しずおか)さんの気持(きも)ちが手(て)に取(と)るように伝(つた)わる。

「静岡(しずおか)さんの気持(きも)ち、分(わ)かりますよ。あの狂気(きょうき)に陥(おちい)っていた青年(せいねん)は私(わたし)の事(こと)ですから。」

私(わたし)の言葉(ことば)を聞(き)いて、静岡(しずおか)さんは安心(あんしん)していた。

「そんな闇先生(やみせんせい)にお願(ねが)いがあります。僕(ぼく)と一緒(いっしょ)に『海神(わたつみ)の森(もり)』の本(ほん)を書(か)いて頂(いただ)けませんか?」

「静岡(しずおか)さんと一緒(いっしょ)に、ですか…?」

「僕(ぼく)はずっとその物語(ものがたり)をテーマに絵(え)を描(か)いています。それが九条家(くじょうけ)、九条(くじょう)ホテルの経営者(けいえいしゃ)の目(め)に留(と)まって、是非(ぜひ)それをまとめて絵本(えほん)にしたいとおっしゃっていました。ですが、僕(ぼく)には文才(ぶんさい)がありません。そこで、闇先生(やみせんせい)に絵本(えほん)の文章(ぶんしょう)をお願(ねが)いしたいのです。資金(しきん)に関(かん)しては九条家(くじょうけ)が工面(くめん)してくださるので、ご心配(しんぱい)なさらず。」

私(わたし)は、絵本(えほん)を造(つく)るのは初(はじ)めてだった。どういうものを書(か)けば良(よ)いのか分(わ)からない。だが、会(あ)って間(ま)もないが、静岡(しずおか)さんとは充実(じゅうじつ)した仕事(しごと)が出来(でき)るような気(き)がする。

 私(わたし)が喜(よろこ)んでと答(こた)えようとした時(とき)、隣(となり)の鬼門(おにかど)さんは頭(あたま)を抱(かか)えていた。

「九条家(くじょうけ)が関(かか)わっていらっしゃるとは、編集長(へんしゅうちょう)や上部(じょうぶ)に相談(そうだん)しないと…」

「丁度今(ちょうどいま)、美術館(びじゅつかん)にご夫妻(ふさい)がいらしています。お会(あ)いしますか?」

「ええ、お目(め)に掛(か)かりたいです。」

私(わたし)がそう答(こた)えると、鬼門(おにかど)さんは大層(たいそう)慌(あわ)てていた。

「九条家(くじょうけ)って、そんなに凄(すご)いのかね?」

「何(なに)をおっしゃるのですか!九条家(くじょうけ)はリゾートホテルや美術館(びじゅつかん)を経営(けいえい)している社長一族(しゃちょういちぞく)ですよ!」

「そうだったのか、確(たし)か『海神(わたつみ)の森(もり)』にもその名(な)が出(で)ていたな。」

鬼門(おにかど)さんは慌(あわ)てて身(み)だしなみを整(ととの)えていた。そして、鞄(かばん)を持(も)って出(で)ようとする。


 その時(とき)、アトリエの扉(とびら)が開(ひら)いて中(なか)から小学生(しょうがくせい)らしき少年(しょうねん)が入(はい)ってきた。

「お父(とう)さん、またアトリエ借(か)りていい?」

「ああ、構(かま)わないよ。」

この少年(しょうねん)は、静岡(しずおか)さんの息子(むすこ)の智樹君(ともきくん)だろうか。彼(かれ)は画材(がざい)を持(も)ち込(こ)んでいた。

「僕(ぼく)を助(たす)けてくれたのは智樹(ともき)でした。あの子(こ)が居(い)なければどうなっていたか…」

静岡(しずおか)さんは鞄(かばん)を持(も)って扉(とびら)を開(あ)ける。

「それでは、美術館(びじゅつかん)に行(い)きましょうか。智樹(ともき)、父(とう)さんはお客(きゃく)さんと美術館(びじゅつかん)に行(い)くから、しばらくお留守番(るすばん)頼(たの)むよ。」

「うん、いってらっしゃい。」

私達(わたしたち)は、静岡(しずおか)さんと一緒(いっしょ)に青崎町(あおさきまち)にある美術館(びじゅつかん)に向(む)かった。



 青崎町(あおさきまち)は、絶景(ぜっけい)を見(み)る為(ため)に昔(むかし)から芸術家(げいじゅつか)が集(あつ)まっていた。大正時代(たいしょうじだい)にはある有名(ゆうめい)な画家(がか)がこの町(まち)で生(う)まれ育(そだ)ったそうだ。この町(まち)を開発(かいはつ)していた九条家(くじょうけ)は、そんな芸術家達(げいじゅつかたち)の為(ため)に美術館(びじゅつかん)を建築(けんちく)し、作品(さくひん)を展示(てんじ)した。静岡(しずおか)さんの作品(さくひん)の一部(いちぶ)もそこにあるそうだ。

「ひとつが『キョウソウ』、もうひとつが『目覚(めざ)めた夢(ゆめ)』、両方(りょうほう)僕(ぼく)が描(えが)いた抽象画(ちゅうしょうが)、作品(さくひん)ですよ。」

『キョウソウ』は漢字(かんじ)で書(か)くとするなら“狂想(きょうそう)”だろうか。狂気(きょうき)に陥(おちい)った心(こころ)を絵(え)にしたのならばこうなるのだろうか。絵(え)は赤黒(あかぐろ)くて禍々(まがまが)しい。

 もう一(ひと)つの『目覚(めざ)めた夢(ゆめ)』というのは狂気(きょうき)から覚(さ)めたばかりの心境(しんきょう)のようだ。きらめく光(ひかり)に満(み)ちながらもどこか影(かげ)を落(お)としている。

「あの青年(せいねん)が言(い)っていた『本(ほん)』のようなものでしょうか。他(ほか)の全(すべ)てを投(な)げ打(う)ってでも完成(かんせい)させたかったもの。僕(ぼく)はそれを完成(かんせい)させてしまいました。智樹(ともき)によればその時(とき)の僕(ぼく)は廃人(はいじん)のようになっていたそうです。」

静岡(しずおか)さんは自分(じぶん)の作品(さくひん)を見(み)ながら私(わたし)にそう語(かた)った。

「あの時(とき)は後悔(こうかい)しました。今(いま)まで描(か)いた作品(さくひん)を破(やぶ)り捨(す)てて絵(え)の道(みち)を絶(た)とうかと悩(なや)みました。それでも僕(ぼく)は絵(え)を描(か)くのを止(や)められませんでした。まだまだ 描(か)きたいものはある。智樹(ともき)や由紀(ゆき)、それから関(かか)わりがある人達(ひとたち)は絵(え)を描(か)く僕(ぼく)を認(みと)めてくださっている。それならその想(おも)いに応(こた)えるべく絵(え)を描(か)き続(つづ)けたい。闇先生(やみせんせい)もきっと、同(おな)じ事(こと)を思(おも)っていたのではないでしょうか…。」

「ああ、そうだね…。」

静岡(しずおか)さんは私(わたし)と同(おな)じように、人(ひと)との繋(つな)がりを意識(いしき)したのだろうか。私(わたし)もそうだ。私(わたし)の場合(ばあい)は人々(ひとびと)の物語(ものがたり)を記(しる)し伝(つた)える事(こと)しか出来(でき)ないが、それで世界(せかい)と繋(つな)がれるのならば、自分(じぶん)が出来(でき)る事(こと)をやり続(つづ)けたい。



 すると、私達(わたしたち)の前(まえ)に三人(さんにん)が現(あらわ)れた。どの方(かた)も背筋(せすじ)が伸(の)びていて、派手(はで)ではないが気品(きひん)ある佇(たたず)まいだ。

「こんにちは、よくぞお越(こ)しくださいましたね。」

その三人(さんにん)というのは、館長(かんちょう)さんと、九条夫妻(くじょうふさい)らしき若(わか)い夫婦(ふうふ)だった。

「初(はじ)めまして。文芸館(ぶんげいかん)の編集者(へんしゅうしゃ)で闇深太郎(やみしんたろう)の担当者(たんとうしゃ)の鬼門将(おにかどまさし)と申(もう)します。」

鬼門(おにかど)さんは私(わたし)が名乗(なの)る前(まえ)に名乗(なの)り、三人(さんにん)に名刺(めいし)を渡(わた)してしまった。そして私(わたし)の方(ほう)を向(む)かずに話(はなし)込(こ)んでいる。



 鬼門(おにかど)さんが落(お)ち着(つ)いた時(とき)、私(わたし)はようやく三人(さんにん)と話(はな)す事(こと)が出来(でき)た。美術館長(びじゅつかんちょう)は飯塚直也(いいづかなおや)、九条夫妻(くじょうふさい)はそれぞれ九条紀夫(くじょうのりお)と奥(おく)さんは蘭子(らんこ)と名乗(なの)った。夫妻(ふさい)は九条(くじょう)ホテルの経営(けいえい)を先代(せんだい)から任(まか)されているそうで、三十代(さんじゅうだい)という若社長(わかしゃちょう)でありながらやり手(て)だと噂(うわさ)されていた。

「静岡先生(しずおかせんせい)さんから話(はなし)は伺(うかが)っております。私達(わたくしたち)からも、『海神(わたつみ)の森(もり)』の書籍化(しょせきか)をお願(ねが)いいたします。」

紀夫(のりお)さんは大企業(だいきぎょう)の社長(しゃちょう)とは思(おも)えない程(ほど)に私(わたし)に向(む)かって深々(ふかぶか)とお辞儀(じぎ)をした。

「『海神(わたつみ)の森(もり)』は私達(わたくしたち)九条家(くじょうけ)にとって大切(たいせつ)な物語(ものがたり)です。私(わたくし)はそれをパンフレットにして海神神社(わたつみじんじゃ)の歴史(れきし)と共(とも)に伝(つた)えていましたが、それだけではいけないと思(おも)いました。そこで、青崎町(あおさきまち)で活動(かつどう)されている画家(がか)の静岡圭先生(しずおかけいせんせい)と共(とも)に絵本(えほん)を作成(さくせい)して出版(しゅっぱん)しようと計画(けいかく)したのです。」

紀夫(のりお)さんは私(わたし)の目(め)を見(み)て、こう言(い)った。

「静岡先生(しずおかせんせい)が闇深太郎(やみしんたろう)先生(せんせい)をご要望(ようぼう)でしたら、私(わたくし)からもお願(ねが)いします。金持(かねも)ちの道楽(どうらく)だと言(い)えばそれまでなのでしょうが、それでも私(わたくし)はこの物語(ものがたり)を後世(こうせい)に伝(つた)えたいのです。」

九条夫妻(くじょうふさい)がそう頭(あたま)を下(さ)げるのを見(み)て、鬼門(おにかど)さんは話(はなし)をしづらそうだった。そこで、私(わたし)は今(いま)思(おも)った事(こと)をそのまま夫妻(ふさい)に伝(つた)えた。

「分(わ)かりました。ご期待(きたい)に応(こた)えられるかどうかは分(わ)かりませんが、『海神(わたつみ)の森(もり)』の物語(ものがたり)は興味(きょうみ)があります。絵本(えほん)の本文(ほんぶん)を書(か)くのは初(はじ)めてですが、必(かなら)ずやり遂(と)げて見(み)せます。」

「闇先生(やみせんせい)、ありがとうございます!」

九条夫妻(くじょうふさい)と静岡(しずおか)さんは、私(わたし)が『海神(わたつみ)の森(もり)』の本文(ほんぶん)を書(か)くのを知(し)るととても喜(よろこ)んでいた。



 その後(あと)、私達(わたしたち)は館長(かんちょう)と別(わか)れて九条夫妻(くじょうふさい)と美術館(びじゅつかん)を出(で)た。そして、海神神社(わたつみじんじゃ)に向(む)かう。そここそが『海神(わたつみ)の森(もり)』に登場(とうじょう)する魚姫(うおひめ)が祀(まつ)られている神社(じんじゃ)だったのだ。私(わたし)はそこの写真(しゃしん)を撮(と)って、お参(まい)りした。

 物語(ものがたり)は知(し)っていたが、それに登場(とうじょう)したものが実際(じっさい)にある。その事実(じじつ)だけで湧(わ)き上(あ)がってくる何(なに)かがある。私(わたし)は物語(ものがたり)だけでなく、今目(いまめ)にしている景色(けしき)と耳(みみ)にしている波音(なみおと)も書(か)きたいと思(おも)ったのだ。



 そして、海辺(うみべ)の洞穴(どうけつ)と九条家(くじょうけ)の墓地(ぼち)に行(い)って後(あと)、九条夫妻(くじょうふさい)と別(わか)れて、アトリエに戻(もど)ってきた。アトリエでは、智樹君(ともきくん)が今(いま)も絵(え)を描(か)いている。


 静岡(しずおか)さんは、私達(わたしたち)をレストランの一等席(いっとうせき)だった所(ところ)に座(すわ)らせた。私(わたし)は、先程(さきほど)まで気(き)になっていた事(こと)を聞(き)く事(こと)にした。

「ありがとうございます。ところで、静岡(しずおか)さんは本名(ほんみょう)で活動(かつどう)されているのですか?」

「ええ、そうですよ。時々(ときどき)『Kei』というローマ字表記(じひょうき)で活動(かつどう)する時(とき)もありますがね。闇先生(やみせんせい)のご本名(ほんみょう)は何(なん)でしょうか?」

「渡辺茂(わたなべしげる)ですよ。最(もっと)も、その名(な)は世間(せけん)には知(し)られていないですがね。」

「“名(な)は体(たい)を表(あらわ)す”という言葉通(ことばどお)り、その名前(なまえ)の方(ほう)が先生(せんせい)らしい気(き)がします。」

私(わたし)から聞(き)いたとはいえ、何(なに)を意図(いと)して私(わたし)の名前(なまえ)を聞(き)いたのかは分(わ)からないが、名前(なまえ)を褒(ほ)められたのは嬉(うれ)しかった。



 すると、アトリエで絵(え)を描(か)いていたはずの智樹君(ともきくん)がこちらへやって来(き)た。手(て)には私(わたし)が書(か)いた本(ほん)を持(も)っている。

「お父(とう)さん、闇先生(やみせんせい)が来(き)てるって本当(ほんとう)なの?」

「ああ、そうだよ。この本(ほん)にサインしようか?」

「やった!ありがとうございます!」

「良(よ)かったね、智樹(ともき)」

智樹君(ともきくん)が喜(よろこ)ぶ顔(かお)を見(み)ながら私達(わたしたち)は立(た)ち上(あ)がった。

「本日(ほんじつ)はありがとうございました。良(よ)かったらこちら貰(もら)ってくださいませんか?」

そう言(い)って静岡(しずおか)さんが渡(わた)した紙袋(かみぶくろ)の中(なか)には額縁(がくぶち)に入(はい)った風景画(ふうけいが)があった。

「ありがとうございます。ですがタダで貰(もら)って大丈夫(だいじょうぶ)ですか?買(か)い取(と)りましょうか?」

「いえ、あなたに貰(もら)って欲(ほ)しいのです。この絵(え)は僕(ぼく)が最初(さいしょ)に描(か)いた『海神(わたつみ)の森(もり)』で、絵本(えほん)には載(の)せないつもりなのですが、先生(せんせい)の執筆(しっぴつ)の参考(さんこう)になればと思(おも)います。」

私(わたし)はその紙袋(かみぶくろ)を受(う)け取(と)り、お辞儀(じぎ)をした。

「それでは何(なに)かありましたら私(わたし)か編集室(へんしゅうしつ)までお願(ねが)いします。」

鬼門(おにかど)さんは静岡(しずおか)さんと連絡先(れんらくさき)を交換(こうかん)していた。

「本日(ほんじつ)はありがとうごさいました。またいつでもお待(ま)ちしております。」

私達(わたしたち)は静岡(しずおか)さんに別(わか)れを告(つ)げて、アトリエを出(で)いった。



 そして、青波台(あおなみだい)へ戻(もど)る前(まえ)に、駅前(えきまえ)の小(ちい)さな喫茶店(きっさてん)に立(た)ち寄(よ)った。鬼門(おにかど)さんはそこでパソコンと携帯電話(けいたいでんわ)を取(と)り出(だ)して、何(なに)やら忙(いそが)しくしている。それを見(み)かねて私(わたし)は、鬼門(おにかど)さんの分(ぶん)の昼食(ちゅうしょく)を注文(ちゅうもん)した。

 目(め)の前(まえ)にアイスコーヒーが置(お)かれると、鬼門(おにかど)さんはようやく画面(がめん)から目(め)を離(はな)した。

「このアイスコーヒー、ダッチコーヒーですね」

「ダッチコーヒー?」

「水出(みずだ)しコーヒーの事(こと)ですよ。カウンターにガラスの抽出器(ちゅうしゅつき)がありました。」

鬼門(おにかど)さんが指差(ゆびさ)した方(ほう)を見(み)ると、確(たし)かに抽出器(ちゅうしゅつき)らしきものが置(お)かれている。それはガラス製(せい)で、実験器具(じっけんきぐ)のような風貌(ふうぼう)だった。

「コーヒーに詳(くわ)しいのかね?」

「学生時代(がくせいじだい)に喫茶店(きっさてん)でアルバイトをしていました。そこでマスターに教(おし)えられていたんです。喫茶浜風(きっさはまかぜ)という店(みせ)で、今(いま)はマスターの息子夫婦(むすこふうふ)が経営(けいえい)していますね。」

鬼門(おにかど)さんは、目(め)の前(まえ)に置(お)かれたサンドウィッチを頬張(ほおば)りながら、携帯電話(けいたいでんわ)を操作(そうさ)している。私(わたし)は、アイスカフェオレを飲(の)みながらそれを見(み)ていた。そして、鬼門(おにかど)さんが見(み)せた画面(がめん)には、浜崎町(はまさきちょう)にある喫茶浜風(きっさはまかぜ)の写真(しゃしん)がかる。確(たし)か、雑誌(ざっし)で紹介(しょうかい)されていて、志保(しほ)が行(い)きたがっていた。

「今(いま)はそこで仕事(しごと)をする時(とき)があります。マスターは腰(こし)を悪(わる)くしてしまっているのですが、僕(ぼく)に会(あ)う度(たび)に自分(じぶん)の子供(こども)と会(あ)うように喜(よろこ)んでくださっています。」

私(わたし)は鬼門(おにかど)さんの話(はなし)を聞(き)きながら、サンドウィッチを食(た)べていた。鬼門(おにかど)さんは瞳(ひとみ)を輝(かがや)かせながら喫茶浜風(きっさはまかぜ)の話(はなし)をしている。そんなに良(い)い店(みせ)ならば今度(こんど)志保(しほ)と一緒(いっしょ)に行(い)こうかと思(おも)った。



 そして、サンドウィッチを食(た)べ終(お)わった私達(わたしたち)は席(せき)を立(た)ってレジへ向(む)かおうとした。

「ご馳走様(ちそうさま)です。僕(ぼく)の分(ぶん)までご用意(ようい)してくださって、すみませんね。お金(かね)は僕(ぼく)が払(はら)いますね。」

「いえ、こちらこそ勝手(かって)に注文(ちゅうもん)して悪(わる)かったね。私(わたし)が払(はら)うよ。」

「先生(せんせい)の奢(おご)りなんて悪(わる)いですよ!」

先程(さきほど)食(た)べたサンドウィッチの味(あじ)よりもお金(かね)の事(こと)を気(き)にしている鬼門(おにかど)さんを見(み)ながら、私(わたし)は二人分(ふたりぶん)の料金(りょうきん)を払(はら)った。



 その後(ご)、私達(わたしたち)は電車(でんしゃ)に乗(の)って青波台(あおなみだい)に戻(もど)っていった。

「これから、忙(いそが)しくなりそうですね。」

「ああ、でも楽(たの)しくなりそうだよ。」

万年筆(まんねんひつ)で今日(きょう)あった出来事(できごと)をメモしている私(わたし)を見(み)ながら鬼門(おにかど)さんは呟(つぶや)く。

「僕(ぼく)は、時々(ときどき)闇先生(やみせんせい)が羨(うらや)ましく思(おも)う事(こと)があります。僕(ぼく)よりも年下(としした)なのに落(お)ち着(つ)いていて、人生(じんせい)を達観(たっかん)している。僕(ぼく)はいつも目(め)の前(まえ)の事(こと)に必死(ひっし)で、先生(せんせい)のようには出来(でき)ません。」

鬼門(おにかど)さんは、私(わたし)のようになりたいと言(い)うのだ。残念(ざんねん)ながら私(わたし)は、人(ひと)が羨(うらや)むような輝(かがや)かしい日々(ひび)を送(おく)って来(き)た訳(わけ)ではない。今(いま)でこそ私(わたし)は作家(さっか)として活動(かつどう)している訳(わけ)だが、かつての私(わたし)は幾(いく)つもの死線(しせん)を潜(くぐ)り、屍(しかばね)を超(こ)えた。自分(じぶん)の大切(たいせつ)なものを見失(みうしな)った時(とき)もあった。

 そうして私(わたし)は今(いま)の境地(きょうち)に至(いた)ったが、それを他(ほか)の人(ひと)に勧(すす)めはしない。

「鬼門(おにかど)さんは鬼門(おにかど)さんのままでいいんだよ。それに、私(わたし)は鬼門(おにかど)さんが羨(うらや)ましいと思(おも)うがね。」

「どうしてですか?」

「私(わたし)はそうまともな人生(じんせい)を送(おく)ってはないからね。」

「そうですか…」

鬼門(おにかど)さんは私(わたし)の目(め)をじっと見(み)つめていた。

「闇先生(やみせんせい)の目(め)は綺麗(きれい)ですね。前髪(まえがみ)が長(なが)かった頃(ころ)は気(き)がつきませんでしたが、闇先生(やみせんせい)は少年(しょうねん)の心(こころ)を今(いま)も持(も)っているようです。」

「そうかな?」

私(わたし)には自覚(じかく)はなかったが、鬼門(おにかど)さんには、私(わたし)が今(いま)も少年(しょうねん)の心(こころ)を宿(やど)しているというのだ。



 私は手帳(てちょう)を閉(と)じて、紙袋(かみぶくろ)の絵(え)を鬼門(おにかど)さんに見(み)た。

「この絵(え)は真海君(まみくん)にも見(み)せようかな。喜(よろこ)びそうだ。」

「真海君(まみくん)って?」

「私(わたし)の知(し)り合(あ)いの女子高生(じょしこうせい)だよ。絵(え)の勉強(べんきょう)をしているんだ。」

私(わたし)は背筋(せすじ)を伸(の)ばして鬼門(おにかど)さんを見(み)た。

「この仕事(しごと)は本名(ほんみょう)でやろうかな。」

「そうなのですか?ですが、闇深太郎(やみしんたろう)の方(ほう)が名(な)が知(し)れてると思(おも)うのですが。」

「この話(はなし)は闇深太郎(やみしんたろう)としてではなく、怪奇小説家(かいきしょうせつか)渡辺茂(わたなべしげる)としてやりたいと思(おも)ったんだ。」

私(わたし)は、車窓(しゃそう)を眺(なが)めていた。帰(かえ)ってからはまた執筆(しっぴつ)の日々(ひび)だ。これからどうしようか。青波台(あおなみだい)に着(つ)くまでの間(あいだ)、私(わたし)は小説(しょうせつ)の本文(ほんぶん)の事(こと)ばかり考(かんが)えていた。




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