長浦町 怪しい店主と古本屋
秋もそろそろ終わりとテレビのキャスターが伝えていた。今日はかなり冷えるそうで、コートが無いと外を歩けないという。
私は、中も外も着込んで外に出た。今日は、ある目的の為に出掛けるのだ。
それは、長浦町という町にある古本屋の噂を確かめる為だ。なんでも、その『一服堂』という古本屋は変わった売り方をしているという。噂では、『書店なのに本の表紙』を見せない』と聞いた。
…N市長浦町、白浜町の隣町で、目の前には興津湾が広がる。その背後には坂の住宅街が続いている。『一服堂』はその住宅街の中にあり、元たばこ屋をそのまま使っているそうだ。
私は、青波台から一駅電車に乗り、長浦駅で️降りた。地図を見ると、坂の中腹に『一服堂』はあった。私は、そこを目指して坂を登った。
そして、『一服堂』の看板の前で私は立ち止まった。たばこ屋の名残でカウンターや自販機はそのまま残されている。カウンターの横にある扉を開けると、そこには、たばこではなく本が所狭しと並んでいた。その奥には、店主と思われる男性が座っていた。彼は和装とも洋装ともいえない不思議な格好をしている。その顔は老けているが何処か若々しくも見えた。
「いらっしゃい、お客さん、本はお好きかい?」
私が頷くと、店主はある棚を指した。
「ならこの中から一冊どうかい?」
その棚には紙袋が幾つも並んでいた。どうやら、その中に本が入っているらしい。
「先入観にとらわれずに本を選んでほしいと始めたんだ。実際好評でね。」
「そうですか…、ですがそれだと本の内容が分からないのでは?」
「そこに書かれているのは私の一言だ。それぞれの本達に合わせている。」
紙袋には、店主の一言が書かれたメモが貼られていた。その言葉は袋によって異なるものになっている。例えば、『寒い夜にあったかくなりたい方へ』や、『海を思い出したい方』へという一言があり、中にはそれに合った本が入っているそうだ。
「この言葉って、店主が読んで決めているのですか?」
「前のお客様の声を元に一冊ずつ考えているよ。」
店主の机の上には、書きかけのメモがあった。どうやら店主は人に本を薦めるのが好きだそうだ。
「本お好きなんですか?」
「ああ…、だからこの店をやっているんだ。」
店主はそう言いながら、紙袋に本を詰めている。どうやら、この『一服堂』は店主一人でやりくりしているようだ。
「何故たばこ屋を古本屋にしたんですか?」
「たばこ屋の店主からこの店を譲り受けてね。」
店主の周囲には灰皿もたばこの箱も置かれていなかった。それに、服からも匂いはしない。たばこ屋を譲り受けたものの、店主本人はたばこを吸わないのだろう。
私は棚の中から『怪異と旅が好きな方へ』と書かれた紙袋を買った。その場で開けて気に入らなければ交換も出来るそうだが、店主を信じてそうしなかった。
「お買い上げありがとう。そうそう、表紙を見せているのは新刊本だよ。」
私は並べてある本を一冊ずつ手に取って眺めた。そして、レジの横にあった手作りの栞を買った。
「ありがとうございます、また来ますね。」
私は代金を払って『一服堂』を出た。
それから、家に帰る前に興津湾の海岸沿いで本を読んだ。袋の中に入っていたのは『翡翠の君』というファンタジー小説だった。少し前に流行った小説で、アニメーションにもなったらしい。私は、あまりそのような物語を読んでいなかったから新鮮だった。
この『翡翠の君』は二十巻で完結しているそうだが、『一服堂』で購入した袋には二巻までしか入っていたかった。そこで、残りの巻を青波台の書店で取り寄せ、一気に読んだ。ここまで別の作家の本を読んだのは久々だった。
しばらく経ってから、『月刊怪奇』で作家が薦める本を紹介するという企画があった。そこで私はその『翡翠の君』を紹介した。怪奇小説じゃないかと驚かれたが、『翡翠の君』の中にも怪異と戦うシーンがあるという理由で、なんと掲載された。
すると、その紹介文が『翡翠の君』の目に留まった。そして、作者である『みなと』さんとお話しする機会を得た。『みなと』さんは森山幾さんの知人で、ライトノベルを中心に書いているそうだ。
今まで作品の感想を伝えようとはしなかった。だが、こうして言葉にすれば、いつか届くべき存在に届くと実感した。
私はこの話を、『翡翠の君』を薦めてくれたあの店主にも伝えに行こうと意気込んでいた。