214_終焉は闇に息づく
「……お分かりになりましたか。流石ですね」
エステルの隣に居る男がそう言った。
彼は法衣を身に纏っている。
「…………」
エステルは、なおも動けない。
若き英雄エステル・ティセリウス。
その名望は留まるところを知らず、遂に史上最年少で、第一騎士団の団長に納まったのだ。
そんな彼女が今、立ち尽くしている。
◆
王都から北へ少し離れた地に広がる、急峻な山々。
その中心あたり、幾つもの山の麓が結合するその地点は、つまり周囲を山に囲まれている。
山肌に沿って複雑な道を抜けなければ辿り着けないそこには、石造りの建物があった。
荘厳な意匠を施されている点から見るに、教会の施設であるようだ。
昼日中だが、霧の中、滲むように建っている。
普通なら人など来るはずも無いこの場所を、教会の者たちに案内され、エステルは訪れていた。
馬が入れるところまでは馬車で来たが、以降は徒歩である。
体力もまた図抜けている彼女のこと、山奥への道に苦慮した訳ではないが、やや迷惑ではあった。
王命であるため是非も無いが、そうでなければ来たいと思わない。
「ようこそお出でくださいました」
それを知ってか知らずか、出迎えた男は笑顔を浮かべていた。
首に提げている護符を見る限り、助祭であるようだ。
「御意にて罷り越しました。私は何も聞いていないのですが、この場所は何なのですか?」
彼女をここへ導いた案内の者たちは、尋ねても答えてくれなかった。
呼び立てるなら用向きぐらいは教えて欲しいものだと考えても、罰は当たらないだろう。
相手が神の徒たちであっても。
「ここは寝所です」
助祭は簡潔に答えた。
寝所。山奥に、である。
なるほどと得心するエステル。
位階の高い、教会の重要人物と引き合わされるのだ。
またぞろ権力者との誼を、望んでもいないのに押し付けられる。
寝所という表現から察するに、居るのは教導の現場を退いた古狸の類だろう。
そして戦いを睥睨するように、ここで"穏やかな余生"を過ごしているわけだ。
「…………」
助祭は、興味深げにエステルへ視線を向ける。
彼女の表情に、通常とは違うものを感じ取ったのだ。
事前に受けていた報告のとおりである。
エステル自身は、自身の思考が神の頸木から脱しつつあることに気づいていない。
しかし教会の権威を指して古狸だのと思考する者が居れば、それはイレギュラーなのだ。
「お疲れのところご足労頂き、恐縮です。闘いの日々、何か迷いなどありませんか?」
「いえ、特に何も」
「………………」
見定めるように目を細める助祭。
エステル・ティセリウスのように力ある者は戦いにおいて有用だが、その分、御し難い。
だが、この強力極まる駒は有効活用されなければならない。
「……ではご案内します。ああ、そうだ。自己紹介がまだでしたね」
エステルを建物の奥へ迎い入れながら、助祭はにこやかに言った。
見る限り若く、溌剌とした印象の男である。
「私はアルトゥーロヴナと申します」
「アルトゥーロヴナ。かの聖人と同じ名ですね」
「はい。親がファンだったようで」
冗談めかして笑声をあげる助祭アルトゥーロヴナ。
聖者ラクリアメレクに師事した直弟子たちは、今日、聖人に列せられている。
神器がそれぞれ聖人の名を冠していることも有名だ。
アルトゥーロヴナは剣の達人としても知られており、よってその名は剣に付けられている。
霊峰ドゥ・ツェリンに収蔵されている宝剣アルトゥーロヴナは、最もよく知られた神器だろう。
「まあ、良い名をもらえて有り難いことです」
聖者は別として、聖人の名を子に付けることは禁じられていない。
重圧に名前負けする者も居そうだが、この助祭はそうではないようだ。
「足元、お気をつけて」
アルトゥーロヴナはランタンを手に歩き出した。
少し意外なことに、誘われた先は下への階段である。
山々の足元へ向かうようだ。
「下ですか」
貴人なれば高いところを好みそうだが、とエステルは思った。
何やらと煙は高きを好むとは言わなかったし、それを言外に含めたつもりも無いが、アルトゥーロヴナは敏感に何かを読み取った。
対して、アルトゥーロヴナの考えは、エステルの目に読み取れない。彼女の若さゆえだろうか。
アルトゥーロヴナもかなり若く見えるが、表情や声音に、秘した感情を混ぜることは無かった。
「外に出ますよ」
「え?」
階段の先、建物からの出口があった。
そこを出た向こう側では、山々の間で谷が口を開けている。
その谷底に向かって、二人は坂を下りていった。
「ここからまた入ります」
谷底に、また建造物があった。
その中へ入り、再び階段を下りる。
下りた先でまた外へ出ると、外は薄暗かった。
洞窟のような場所である。
見上げると、天井の隙間から僅かに陽光が射し込んでいた。
「結構歩きますが、ご容赦ください。と言っても、さぞご健脚でございましょう?」
「かもしれません」
アルトゥーロヴナは何でもない世間話のように話しかけてくるが、周囲の雰囲気は世間と離れつつある。
そんな中を、二人はどこまでも下りていった。
結構歩く、などとアルトゥーロヴナは言ったが、結構というレベルではない。
既に山々の麓より大きく下まで来ている。完全に地下であった。
一層大きな両開きの扉を開いた先、岩々が露出した下り坂が闇へと続いている。
普通なら到底、今日初めて会った男と行きたいとは思わない道。
だがティセリウスの腰には剣があり、彼女は凄まじく強い。怯む理由も無かった。
そして坂を下りた先は洞窟であった。
いや、洞窟というにはあまりに広い。
上にも、左右にも、遠大な闇が広がっていた。
そして、こんなことを感じるのはエステルにとって初めてだが、この空間には魔力が満ちている。
あまりにも濃度の高い魔力であった。
「ここは一体……?」
「もう、すぐそこですよ」
事も無げに言って、アルトゥーロヴナは歩き出す。
その後ろに続くエステル。
アルトゥーロヴナが手にするランタンだけが光源である。
「…………」
あたりを見まわすエステル。
闇だけがどこまでも広がっている。
そしてしばらく歩いた先、ランタンが前方に巨壁を照らした。
広大な洞窟の行き止まりであった。
「さあ、着きました」
目の前のそれを、彼女は最初、ただの壁だと思った。
◆
「………………」
永劫にも思える沈黙のすえ、エステルは唇を動かした。
その隙間から声が零れる。
「竜…………?」
「……お分かりになりましたか。流石ですね」
動けなかった。
脳天から氷柱が突き刺さり、地に縫い付けられているような感覚である。
山肌に思えたのは体表だった。ごく僅かに上下する様は、呼吸をしているように見える。
肉の隆起は確かに生命を思わせ、血管のように浮き出た筋が、どくり、どくりと脈動していた。
赤黒い全身が、異常なまでの存在感を放っている。
「………………」
ようやく動いた首を上へ向ける。
遥か遥か頭上、百メートルほども上にあるあれは、貌、なのだろうか?
そこには何本もの皺が寄っている。閉じられた目のようなものも見える。瞼の隙間から僅かに漏れる深紅の光は、瞳のそれなのか。
そして同じく閉じられているが、あまりにも巨大な顎。
エステルは、額に汗が浮き出るのを感じた。
喉は張り付き、耳鳴りが聞こえる。
「大きいでしょう。頭から尾の先までで二千メートルに及びます」
体長二キロ。
どう考えても、生物としては存在し得ない大きさである。
いや、ただ巨大なだけの生物であれば、エステルが自失に陥ることは無い。
これは、そういう次元の存在ではないのだ。
あまりにも禍々しかった。
赤く熱された何本もの釘が、体へ突き刺さるかのような感覚に、悟らざるを得ない。
明らかに、明らかに良くないものが顕現している。
だが、ここまで負を湛えた存在を知るはずも無い彼女には、それがどう良くないのかが分からない。
当てはまる言葉が見つからないのだ。
滅び、消失、終焉────。
どうにか思い浮かぶ言葉は、そういった類のもの。
目の前に在るのは、それらを煮詰めた存在なのだ。
息苦しさの中、水面から顔を出して空気を求めるように、エステルは視線を彷徨わせた。
すると気づく。
竜の体表、ところどころで、ぱちぱちと何かが小さく爆ぜていた。
魔力光に見える。
「あれは封印です」
「封印?」
「大陸中から集めた魔力で、竜を封じているのです」
「集めた、というと……」
「むろん魔族から」
「……………………」
「膨大な魔力が必要ですからね」
長く続く戦争。
飽くこと無く、血は流され続けている。
魔族を絶対的な敵として、悪として、王国はそれを討ってきた。
魔族は魔力を生まれ持っている。
彼らが死んだ後、その魔力は魂と共に彼岸へ行くわけではない。
ここへ集まっているのだ。
「この空間に満ちる魔力は……」
「竜から零れ落ちたものです。竜自身の魔力は、竜の封印には使えません」
「…………神疏の秘奥」
「お察しのとおり。この場所こそが、人間に与える魔力の発生源ですよ」
周囲に漂う魔力を感じるエステルは、それが自分に与えられたものと同じであることに気づいてしまう。アルトゥーロヴナの言っていることが、事実だと分かってしまう。
秘奥は、神の御業などではなかった。
この空間と経路を繋いで、人に魔力を供給しているのだ。
教会は、魔族から吸い上げた魔力で竜を封じ、竜から零れ出た魔力を人間に与えている。そしてその力で魔族を殺させる。
このためだった。この円環を作るための戦争だったのだ。
「封印が解けると……どうなるのですか?」
「竜は度々、地上に暴威を振り撒いてきました。伝承はご存じかと」
「………………」
「しかし、大きな人類国家が成立してからは、まだ現れていません」
竜の伝説はいずれも古代のものだ。
小国家が点在するだけの時代において、竜による人的被害は目立つものではなかった。
竜は人を呑むのではなく、山を砕き大地を穿つ存在であったのだ。
だが、人々の纏まった生活圏が地上に存在する今代、竜が暴れれば何が起こるか。
目の前で眠るそれが目覚めれば、何が起こるのか。
「ここは王都のすぐ傍。もっとも、暴威は王都を焼き尽くすだけでは済まないでしょう」
アルトゥーロヴナの口調は軽い。
しかしそれが事実であることは、数々の伝承から、そして目の前の途方もない存在から、あまりに明白である。
どれだけのものが灰燼に帰すか、想像するだに恐ろしい。
目の前のそれは、まさに滅びをもたらす存在。そうとしか思えない。
ゆえに、エステルは問うのであった。
「……殺せないのですか?」
「………………」
沈黙を返すアルトゥーロヴナ。
先ほどまでにこやかだった彼が、能面のような表情を浮かべている。
「……殺せると、思いますか?」
到底思えない。
鋼鉄のような鈍い輝きを持つ体表は、見るからに硬く、とても刃が通るとは思えなかった。
そもそもエステルの腰にある剣など、竜にとって薊の棘にも劣るだろう。
しかしそれでも、放ってはおけない。
恐怖を振り払うように大きく息を吐くと、エステルは竜へ向け踏み出した。
「!!」
びしりと全身を貫く衝撃。
視界が暗転し、意識が消し飛びそうになる。
すんでのところでエステルは跳び退り、事無きを得た。
だが、身体中に冷たい汗が浮かんでいる。
「近づくほど、加速度的に魔力濃度が高くなっています。人の身で傍に寄ることは叶いません」
そう告げるアルトゥーロヴナ。
確かに近寄れない。
魔力は、魔法として事象化されなければ、ほぼ害を為さないはずである。
だがここにある魔力は、その凄まじい濃度で生命を寄せ付けなかった。
希釈されて人に与えられる前の魔力がどれほど凄まじいか、エステルは理解せざるを得ない。
竜は、存在するだけで周囲を圧倒しているのだ。
「竜を傷つけることが出来るのは、竜だけですよ」
言われてもう一度、闇の中の竜へ向けて目を凝らす。
赤い体表ゆえ分からなかったが、赤い傷が身体中に見受けられた。
竜の血肉も赤いというのだろうか。
「さて……。もうお分かりと思いますが、ここにお連れしたのは戦う理由を知って頂くためです」
そして、駒を縛るため。
戦わなければ────。
魔族を討ち、ここへ魔力を吸い上げ続けなければ────。
その時は、破滅が目を覚ますのだ。
エステルは、汗で覆われた顔をアルトゥーロヴナへ向ける。
アルトゥーロヴナも視線を返した。
「口外なさいませんよう。この事実は、人々を恐慌へ追いやってしまいます。あの執事殿にも秘して頂きたく」
執事とは愛称であり、彼女の信頼する副団長を指す。
アルトゥーロヴナは優しく言い含めるようにそれを伝えたが、目の奥には剣呑なものが光っていた。
背けば好ましくないことが起きるのだ。
脅しというよりは、そうしなければならないという事実を、アルトゥーロヴナは伝えている。
自身の言に他者が従うのは当然であるかのように、彼は悠然と佇んでいた。
アルトゥーロヴナは確実に、ただの助祭ではない。
そもそも、助祭がこれほどの秘密に関われるはずが無いのだ。
「……それで助祭殿。どちらなのですか? この竜は」
「熾竜ですよ。熾竜ジュヴァ」
ほんの僅かにだけ、安堵を感じるティセリウス。
二柱の竜のうち、彼女は古竜グウェイルオルが好きだった。
絶望を体現するような目の前の存在が古竜でなかったことは、極々ささやかな福音と言える。
「さあ、戻りましょうか。帰りは上りだから大変ですよ。この時ばかりは気が滅入ります」
ふふ、と笑って背を向け、歩き出すアルトゥーロヴナ。
その背を見据え、エステルは考えていた。
アルトゥーロヴナから感じ取った、大きな欺瞞について。
彼は一枚も二枚も上手だが、エステルはどうにかそれを掴んだのだ。
竜を殺せないのかと問われた時の、冷え切ったあの表情。
そして彼は、人の身で竜の傍に寄ることは"叶わない"と言った。いかにも残念そうに。
彼は熾竜ジュヴァを信奉している。
恐らく彼の同輩らもそうなのだろう。
だから彼らは待っているのだ。
古竜によって負わされたのであろう、あの傷が癒えるのを。
彼らは熾竜が完璧な状態で復活することを期しており、それゆえの封印なのだ。
「………………」
この推測は外れていて欲しいと、心の底から思う。
だが悲しいことに、外れてはいまい。
滅びが目覚める日を、彼らは待っている。
そして……これも明白に分かることだが、エステルに出来ることは一つ。
封印を維持し、その日を先延ばしにすることだけだ。
傷を負った今の状態であっても、目覚めれば熾竜は地上を地獄に変える。
王国領も魔族領も、等しく絶望に覆われる。
竜と相対した彼女には、それが確信出来てしまうのだった。
だから魔族と戦うしか無い。
せめて戦場でのみ血を流すこととし、剣を手にし続けるしか無い。
地の底から竜が見上げるこの世界で。
その世界が変わる日を待ちながら。
世界を変え得る誰かを待ちながら。
その誰かが、私のことも助けてくれたら良いのにな、と。
夢想としか言いようの無い想いを抱えながら。
◆
「………………」
目を覚ますエステル。
何度見たとも知れない夢から帰還し、ベッドから起き上がる。
そこで異変に気付いた。
外が何やら騒がしいのだ。
野営中なら、針が落ちる音でも目を覚ますであろう彼女である。
この喧騒でも眠ったままだったとは、つくづく不調を感じてしまう。
窓の外へ目をやり、慎重に見まわすと、残念ながら居た。まだ遠くだが、村へ入ってきている。
教会の者たちと、第一騎士団の騎士……だった者たち。
いや、"元"第一騎士団は、今や自分の方か。
そんなことを考えつつ、彼女は扉へ向かう。
その時、向かい合わせるように扉から入ってくる者があった。
一瞬、警戒するエステル。
だが、入って来たのはエイラだった。
「エステル様……! 出てきちゃ駄目ですよ……!」
声を潜め、しかし強く訴えるエイラ。
だが、と言い募ろうとするエステルを、強引に奥へ押し込んだ。
確かに今のエステルが飛び出して、どうにか出来る状況ではない。
「…………」
くだらぬ結末が、すぐそこまで来ている。
こうやって下されるべき罰が下されるなら、以て神は居ると言えるのかもしれない。
千々に乱れる思い。
エステルは、ただ強く唇を噛んだ。
書籍版『煤まみれの騎士』第8巻が、2026年5月17日に発売になります。
今回も大幅加筆でお送りします。
どうぞよろしく!





