209_野犬と貴人
「はぁ……はぁ……」
山中を歩くエリアスと家臣たち。
整備された道などありはしない。枝をかき分け、積もった落ち葉に足を取られながらも、追手から遠ざかろうとする。
しかし当然ながら山中を逃げた経験など無く、難儀するばかりである。
特に元々体力が無いエリアスは、疲労のピークを迎えていた。
挫いた足には鈍痛が走り続け、渇き切った喉が声なき悲鳴をあげる。
「おい、トロトロすんな」
そこへ浴びせられる声。
発破をかける、と言えば聞こえは良いが、その言葉はいちいち罵倒に聞こえる。声音に何の気遣いも感じられないのだ。
敬愛する主人をそのように扱われては、家臣たちも怒るというものであった。
「シ、シグとやら! 無礼ではないか!」
「そうだ! こ、言葉を慎め!」
僅かに声を震わせる家臣たち。
瞬く間に敵たちを斬り伏せた男に対し、そしてその男の白刃を突き立ててくるような眼光に対し、恐れを抱くのも無理からぬ話である。
「騒いでんじゃねえよ。親分は根性無しで、家来はみんなバカか」
「なっ……!」
追われる身で大声をあげているのだから、確かに迂闊ではあった。
だが家臣たちも、主人を罵られては引き下がれない。
「伯爵閣下たる旦那様に対して、そのような!」
「知るかよ」
「そもそも貴様、平民であろう!」
貴族の威を叫ぶそれは愚かな物言いにも聞こえるが、この国の常識に則るものであった。
強い封建主義を持つロンドシウス王国にあって、平民から貴族への無礼など、まず考えられないことなのだ。
ましてエリアスは、この地の領主である。
ただ、ティセリウス家は代々寛容なことで知られており、平民に無体を働くようなことも決して無い。
家人も皆、その方針を重んじている。
ゆえにこのようなケースでも、平民の方で頭を下げれば、それで収まる話なのだ。
これに対しシグは、頭を下げこそしなかったが、代わりに前蹴りを見舞った。
「おぅぐ!?」
硬い靴の裏を腹へ捻じ込まれ、家臣は苦悶の声をあげる。
それを見た他の者たちは、いよいよ気色ばんだ。
「お前! いい加減にしろ!」
叫び、食ってかかったのは衛兵の一人である。
シグとの力の差は分かっているが、主人へ無礼を働く男を前に、黙ってはいられなかったのだ。
彼は踏み出し、至近へ顔を寄せてシグを睨みつけた。
対してシグは、底冷えするほど静かな声で言う。
「あ? 死にてえのか」
「……う」
力の差は分かっている、つもりでしかなかった。
自分は今、肉食獣の口に手を差し入れているようなものだ。
それを理解し、一歩を後ずさる衛兵。
次の瞬間、鳩尾にシグの拳がめり込んだ。
「げぉっ!」
鉄球を投げつけられたような衝撃であった。
先ほどの家臣と同様、腹を押さえて蹲る。
「や、やめてくれ! 皆も落ち着くんだ!」
声をあげたのはエリアスだった。
緊張に満ち、上ずった声ではあったが。
「シグ殿。臣下の非礼は詫びる。こちらとしては、私を救わんとしてくれている貴方と争う理由など無い」
事実としてシグは命の恩人であり、ここから生き延びるには彼が必要である。
愚かな諍いを起こしている場合ではないのだ。
それは分かり切っていることだが、しかし忠義のもと怒りを露わにする家臣たちを、エリアスとしては無下にも出来ない。
「我が家臣たちは、ただ互いに礼節を持ちたいと、そう言っているだけなのだ」
「てめえらがそうしたいなら、そうしろ。俺には関係ねえ」
「礼や信義は、互いを尊重してこそ成立する。そうは思わないか?」
「あ? 雑魚が何を宣ってんだ?」
低く、脅しつけるようなシグの声。
エリアスへ顔を寄せ、数センチの近さから眼光を叩きつける。
先ほどの衛兵のそれとは、まるで迫力が違っていた。
「う……」
「考えてモノ喋れ。伯爵さんよ」
「……た、た、たとえ弱くとも、対等であらんとするべきなのだ……!」
「…………」
貼りついた喉から絞り出した声はか細く、語尾が消え入りそうであった。
それでもエリアスは、後ずさろうとする足を抑えつけ、何とか踏みとどまる。
しかし唇の震えは抑えられず、怯えが口元にありありと浮かんでいた。
怖かった。
こういう類の人間には、終ぞ会ったことが無い。
蠍が肩を這うような感覚に、総毛だつ思いである。
しかし、それでも退かずに耐える。
対等であるべきと言ったそばから、膝を折ってはならない。
エリアスは、さして強くもない精神力のすべてを励起し、シグの視線を受け止めた。
「………………」
そして無限にも思える数秒ののち。
シグの視線が僅かに和らいだ、ように見えた。
気のせいかもしれないが、エリアスにとってはそう見えた。
それからシグは視線を外し、踵を返す。
「……対等、ね。好きな言葉だが、お貴族サマが言っても説得力ねえぜ」
そう言って歩き出すシグ。
エリアスは肺の空気をすべて吐き出し、言いようの無い安堵を得る。
冗談ではなく、命の危機を感じていたのだ。
そしてぶるりと首を振り、遅れまいと踏み出すのであった。
◆
「こっちだ」
「シグ殿。どこへ向かっているのだ?」
「水場」
「水場?」
異なことを、と思うエリアス。
このあたりについて、シグが知るはずも無いのだから。
エリアスとて知らないのだ。
自邸の背後に広がる山であっても、足を踏み入れたことは無い。
いや、活動的な姉に連れ出されて入り込んだことはあったか。
────お外に行こうエリアス! だいじょうぶ! わたしが守ってあげるから!
「………………」
「ここだな」
「え?」
山の奥深く、鬱蒼と茂る木々を抜けた先、確かに小さな沢があった。
驚くエリアス。
家臣たちも目を丸くしている。
だがシグにしてみれば、どうと言うことの無い話である。
以前にロルフと山中を進んだ時も、同じように小川を見つけた。
今日はあの時より乾いており、水の匂いを嗅ぎつけるのは、より簡単であった。
「有り難い。水にありつけるとは……」
この状況で水が飲みたいと主張するのも憚られるため黙していたが、エリアスの喉は渇きに渇いていた。
逸る気持ちで沢へ近づき、水を覗き込む。
「うわっ!?」
そして、びくりと肩を震わせた。
家臣たちは何事かと慌てるが、シグは素っ気ない。
「うるせーぞ。さっさと飲め」
「し、しかしシグ殿。虫が居るぞ?」
沢の中には、体長数センチの虫が何匹か居た。
うぞうぞと足を動かし、沢の底にへばりついている。
水棲の虫の存在自体知らないエリアスは、顔を白くしていた。
彼は、清潔な井戸水しか口にしたことが無い。この状況でそんなことを言っていられるはずも無し、と理解はしているが、蠢く虫には後ずさってしまう。
「ガタガタ言ってんなよ、虫くらいで」
「だ、旦那様にそのようなものを飲めと……!」
「あ?」
なお果敢に言い募ろうとする家臣たちだが、シグに一睨みされて口を閉ざす。
逆に、口を開いたのはエリアスだった。
「…………水を摂っておかねば、この先もたん。そうだろう? 皆も飲むのだ」
「旦那様。ではまず我々が」
「不要だ。良いか? 世には泥水で命を繋ぐ者も居るのだ。そういうことを忘れてはならん」
「…………」
エリアスへ向けた視線に、少しの興味を滲ませるシグ。
エリアスは、貧しき者の記録を偶々読み、覚えていたに過ぎない。
それでも、忘れ得ぬことだから覚えているのだ。
「……そいつはヤゴだ。ヤゴは汚ねえ水には棲まねえ。そいつが居るってことは、綺麗な水ってことだ」
「そ、そうなのか?」
言われてみると、確かに水は澄んでいて美しい。
静かに流れる水面は、きらきらと陽光を湛えている。
それだけに、透き通った水の中に居る虫が目を引いたのだ。
「随分と禍々しい姿かたちをしているが、これで清流を好むとは……」
尖った顎に、反り返った胴。
肉食の昆虫は、エリアスの目には異形と映った。
そして恐ろしい見た目をした生き物が、澄んだ水の中に居る光景は奇異に思える。
だがシグは同意を示すことなく、いかにも面倒くさそうに答えるのだった。
「何だそりゃあ。姿と清さは関係ねえだろ」
「う、うむ。確かに」
そのとおりであった。些かの反論も持ち得ない。
ともすれば、貴族たるの在りようを気にしているのも馬鹿馬鹿しい。
そう思い、意を決したような面持ちで川辺にしゃがむエリアス。
そして両手で水を掬い、口に運ぶ。
喉を動かした後、天を仰いで言った。
「ああ……。まさに甘露だ」
「はん。何でもねえ沢の水が甘露かよ」
吐き捨てるように言うシグ。
その語調に家臣らは眉を顰めたが、エリアスは不快ではなかった。
書籍版『煤まみれの騎士』第8巻が、2026年5月17日に発売になります。
今回も大幅加筆でお送りします。
どうぞよろしく!





