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第2話 半拍のずれ

 ドアを開けると、灰原ドクが煙草の匂いをまとって立っていた。

 ラザロが世界を「管理」するようになって、嗜好品の多くは姿を消した。それでもこの男は、どこからか古い煙草を見つけてくる。保存されない人間だけが許された、ささやかな反抗のように。

「よお、復元士さん。お取り込み中だったか?」

 ドクの視線が、カナタの肩越しに、リビングのユイへと流れた。一瞬で、彼の皮肉な笑みが薄れる。彼は保存体を見分ける目を持っている。カナタほど精密ではないにせよ、長く裏の世界にいる人間の勘で。

「妹さん、戻ってきたのか」

「三日前にな」

「……そうか」

 ドクはそれ以上、何も言わなかった。言わないことが、彼なりの優しさだった。カナタはサンダルをつっかけ、外に出てドアを閉めた。ユイに聞かせたい話ではない。

 夜の街は、街灯だけが等間隔に灯っていた。人影はない。ラザロ以後、夜に出歩く者は減った。出歩いても、すれ違うのが本物かどうか分からないからだ。

「依頼だ」ドクが封筒を差し出した。「東地区の女。旦那が先月、保存から戻ってきた。で、奥さんが言うには――『あの人じゃない』」

「よくある話だ」

「最後まで聞け。奥さんは旦那を疑ってるんじゃない。逆だ。旦那の中に、まだ本物が残ってるんじゃないかって、それを取り戻してほしいんだとさ」

 カナタは封筒を受け取らなかった。

「復元士を勘違いしてる。俺は保存体の中から、本物の記憶の『欠片』を見つけるだけだ。人を元に戻すんじゃない。壊れた時計の、止まった針の位置を読むようなものだ。動かせはしない」

「分かってる。だが、針の位置が分かるだけでも、あの奥さんには救いなんだよ」

 ドクの声に、めずらしく棘がなかった。カナタは封筒を見つめた。

 保存体の異常を、人は「半拍のずれ」と呼んだ。笑うのが、頷くのが、ほんのわずかに遅れる。まるで一度どこかへ問い合わせて、答えをもらってから動いているように。ラザロは完璧なコピーを作る。記憶も、癖も、声紋も。なのに、その半拍だけは、どうしても消せない。

 なぜか。

 カナタはずっと、それが知りたかった。ユイの欠けた犬の記憶も、その半拍も、きっと同じ穴から漏れている。

「……場所は」

 ドクが、にやりと笑った。「やる気になったか」

「ユイのためだ」カナタは封筒を受け取った。「あいつの中で、何が欠けたのか。それを知るには、他の保存体を、もっと読まなきゃならない」

 そのときだった。

 背後のドアが、音もなく開いた。

 ユイが立っていた。裸足のまま、玄関の三和土に降りて。彼女はカナタを見て、いつもの優しい顔で微笑んだ。それから、半拍遅れて、こう言った。

「お兄ちゃん。どこにも行かないで」

 カナタの心臓が、嫌な音を立てた。

 その言葉自体は、妹が言いそうなことだった。問題は、ユイがそれを言う前に――確かに、ほんの一瞬だけ、どこか遠くを見るように視線を泳がせたことだ。

 まるで、誰かに「次のセリフ」を尋ねたみたいに。

 ドクが煙草を落とした。

「おい、カナタ」彼の声が、低く張りつめた。「あれ……お前の家のユイ、外に出てこられるのか?」

 言われて、気づいた。

 保存体は、本人が登録された場所から、一定の距離を出られない。それがラザロの「保存」の決まりだった。ユイの行動範囲は、この家の中だけのはずだった。

 なのに彼女は今、玄関の外に、片足を踏み出していた。

 街灯の光が、ユイの足元を照らす。その影が、地面の上で――ほんの半拍、遅れて動いた。

「お兄ちゃん」

 ユイがもう一歩、こちらへ踏み出す。

 カナタは、初めて自分の妹から、後ずさった。

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