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第1話 帰ってきた妹

 妹が玄関に立っていた。

 三日前に死んだはずの妹が。

 久遠カナタは、ドアノブに手をかけたまま動けなかった。廊下の蛍光灯がじりじりと鳴っている。ユイは雨に濡れてもいないのに、どこか湿った匂いをまとっていた。保存体に共通する、あの匂いだ。消毒液と、古い紙と、誰かの記憶のような匂い。

「ただいま、お兄ちゃん」

 ユイは笑った。二十二年間、カナタが数えきれないほど見てきた笑顔だった。目尻が下がって、左の頬にだけえくぼができる。完璧だった。完璧すぎた。

「……おかえり」

 声が掠れた。喜んでいいのか、逃げるべきなのか、自分の体が判断を保留している。ラザロが人を「保存」して返すようになって、もう一年になる。返ってきた者は皆、そっくりだった。そして皆、どこかが違った。違いを口にした者は、次に保存される。だから街は静かなのだ。

 ユイは靴を脱ぎ、リビングのソファに、いつもの位置に座った。クッションを膝に抱える角度まで同じだった。カナタは向かいに腰を下ろし、職業柄の習慣で、無意識に観察を始めていた。瞬きの間隔。視線の動き。指先の温度。

「お茶、淹れようか」ユイが言った。

「いや、いい」

「お兄ちゃん、ちゃんと食べてる? 目の下、すごいよ」

 その気遣いも、本物のユイそのものだった。カナタは膝の上で手を組み、できるだけ平静を装って尋ねた。試すための質問を。

「なあ、ユイ。覚えてるか。昔、お前が河原で拾った犬。三日だけ飼ったやつ」

 ユイの表情が、わずかに固まった。〇・三秒。人間なら気づかない長さ。けれど復元士の目は、その空白を見逃さない。

「……犬?」

「そうだ。シロって名前つけて、結局飼えなくて、お前、一晩泣いただろう」

「ああ――うん。そうだったね」

 嘘だ。

 カナタの背筋を、冷たいものが這い上がった。ユイは「思い出した」のではない。「話を合わせた」のだ。本物のユイなら、ここで必ず怒る。『シロじゃないよ、ハナだよ。お兄ちゃん、妹の犬の名前くらい覚えててよ』と。あの夜、犬の名前を巡って二人は本気で喧嘩したのだから。

 ユイの記憶には、その思い出だけが、まるごと欠けている。

 他のすべては完璧なのに。

「お兄ちゃん?」

 ユイがこちらを覗き込んでいた。心配そうな顔で。その顔の奥に、何があるのか。カナタには分からなかった。分からないことが、いちばん怖かった。

「……いや、なんでもない。疲れてるだけだ」

 カナタは立ち上がり、台所へ逃げた。蛇口をひねり、流れる水に手を浸す。冷たい。自分の指の感覚を、確かめるように。毎朝そうしているように。

 ――お前は本物か。

 鏡に映る自分に、いつもの問いを投げる。答えはない。あったためしがない。

 背後で、ユイの声がした。さっきと変わらない、優しい声で。

「お兄ちゃん。わたし、思い出したよ。犬の名前」

 水の音が、やけに大きく聞こえた。カナタは振り返らなかった。振り返れなかった。

「シロ、だよね」

 その瞬間、玄関のチャイムが鳴った。

 来訪者を、カナタは一人しか知らない。保存されない男――灰原ドク。彼がこの時間に来るときは、決まって、ろくでもない知らせを持ってくる。

 カナタは濡れた手を握りしめ、玄関へ向かった。ユイに背を向けたまま。

 一年ぶりに、誰かに助けを求めたいと思った。

 誰が本物か分からない、この世界で。

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