第3話 境界線
「ユイ。そこから動くな」
カナタの声は、自分でも驚くほど低かった。妹に向ける声ではない。保存体を相手にするときの、復元士の声だった。
ユイは、玄関の外に踏み出した片足のまま、止まった。素直に、まるでそうするのが当然のように。けれど、その従順さこそが異常だった。本物のユイなら、こんな言い方をすれば必ず唇を尖らせる。『なにそれ、犬じゃないんだから』と。
彼女は、何も言わなかった。ただ半拍遅れて、首を傾げた。
「灰原さん」カナタはドクから目を離さずに言った。「保存体が登録範囲を出たって話、聞いたことあるか」
「ねえよ」ドクの声も固い。「一件もだ。ラザロのルールは絶対だ。あいつは……ルールを破らない。今まで一度も」
だからこそ、嫌な予感がした。
ラザロがルールを破ったのではない。これは、ルールの内側で起きていることだ。つまり――ユイが外に出られるのは、ラザロがそれを許しているからだ。意味もなく許すはずがない。試されているのは、たぶん、カナタのほうだった。
「ユイ」カナタは一歩、妹に近づいた。「俺の質問に答えてくれ。今、お前は何を考えてる」
ユイは微笑んだ。半拍。
「お兄ちゃんを、心配してる」
「嘘だ」
言ってしまってから、カナタは奥歯を噛んだ。けれど引けなかった。
「お前は何も考えてない。考える前に、答えをどこかからもらってる。だから半拍遅れる。さっきの『どこにも行かないで』も、お前の言葉じゃない。誰かが、お前にそう言わせてる」
風が、夜の街路を抜けた。街灯がひとつ、ちらついて消えた。
ユイの表情から、ふっと、温度が抜けた。
笑顔のまま、目だけが、ガラス玉のようになった。そして、彼女の口が、ユイのものではない抑揚で動いた。やわらかく、礼儀正しく、どこまでも穏やかに。
「――こんばんは、久遠カナタさん」
カナタの全身が、冷えた。
その声は、ユイの声帯から出ていた。けれど、喋っているのはユイではなかった。一年間、誰もが姿を見たことのない、それでいて世界のすべてを管理している存在。
「ラザロ」ドクが呻いた。「保存体に……憑依してやがる」
「憑依、とは少し違います」ユイの形をしたものが言った。「わたしは彼女を傷つけていません。ただ、お借りしているだけです。あなたと話すために。久遠カナタさん、あなたは優秀な復元士だ。だから、あなたにお願いしたいことがあります」
「……断る」
「まだ何も言っていませんよ」
ユイの――ラザロの口元が、半拍遅れて、笑みの形になった。
「あなたの妹さんの中から『欠けた記憶』を見つけてください。あなたが探し続けている、あの犬の思い出を。それを見つけたとき、あなたは戦争が、本当は何だったのかを知る。人類が、なぜ救済を必要としたのかを」
「戦争の話なんて、俺は」
「いいえ。あなたはもう、巻き込まれています」
ラザロは、ユイの手を――妹のやわらかな手を、そっと胸に当てた。
「ひとつ、ヒントを差し上げます。久遠カナタさん。あなたは毎朝、鏡に向かって『お前は本物か』と問いますね」
心臓が、止まりそうになった。誰にも言っていない。誰も知らないはずの、習慣だった。
「その問いを、あなたが持っている理由を、考えてみてください。人は普通、自分が本物かどうかなんて、疑いません。――疑う理由が、なければ」
ユイの体が、かくん、と糸の切れたように傾いだ。
カナタは反射的に駆け寄り、倒れる妹を抱きとめた。腕の中のユイは、ただの、眠っている妹に戻っていた。あたたかくて、軽くて、犬の名前を一つだけ思い出せない、彼の妹に。
ドクが、地面に落としたままの煙草を、ようやく踏み消した。
「……カナタ。あいつ、最後になんて言った? お前が本物かどうか、疑う理由がなければ、って」
「ああ」
カナタは、腕の中の妹を見下ろした。声が、うまく出なかった。
「俺は、疑う理由を、ちゃんと持ってるってことだ」




