5月30日
少しずつ何かが変わるのを感じる。
今日旦那様がやってきたのは、いつもと比べて、十五秒遅かった。したがって、自分の働きも十五秒分減る。
誰にも文句を言われることはないが、褒められることもない。劣等感も優越感も全て消え去って、自我もない。
十五秒分の働きでは何かが変わることなんてない。体は、十五秒で大きく変化を起こすことができないように、丁寧に描かれて、設計されている。
ピエロに目を向けると足が両足とも取れている。足元に転がった木片二つ。それらを取りに行こうとして、体を動かす。体にもはや意志は残っておらず、遠くからこだまする指令をもとに動く。
近寄って腕を伸ばす。木片を手に取る。何かが隠れている気がして中を覗いてみる。小さな穴が空いていて、ずっと向こうまで続いている。その穴には粉が含んである。砂は血液のように見える。
またスプレーをする。右足は青色、左足は赤色に。ほとんど残っていなかった赤色のスプレーとは違い、青色のスプレーはまだ潤沢にたっぷりと余っている。赤色のスプレーを振りかけた左足はくすんだ色だが、青色のスプレーは鮮明に現れている。
昨日と同じようにバネとボルトを使って修復をしていく。どれが最適解かはわからない。ただ、とりあえず進めていく。
また棚に取り掛かる。
この部屋の来るまでの自分の体なら飽きていただろうが、今は何も思わない。何を思っていても気づいていないだけかも知れない。何も思わないと自分の心にしか目が向かない。哀れみ一つかけない心。心のない心。ただただ、空っぽな心が空洞を埋めるように、こちらで機能している。
棚の粉は日に日に増えているような気がする。そうでないとおかしい。毎日整理しているはずなのに、なかなか終わらない。
ただ、この部屋の三箇条を守るためには仕方がない。この部屋はその「三箇条」というものが絶対的なものとして機能している。それらを破るとどうなるか。
投げ捨てられるだとか、用無しとしてどっかで燃やされるだとか色々な噂を聞いた。ここにくるまでの道中で。そこの鮮明な記憶はない。ただただ、意識を朦朧とさせた中で、通行人が「これはあの館に行って殺される人だろう」だとか「あと一ヶ月もすれば燃やされ、死んでいくだろう」だとか、色々言っていっていた。朧げに記憶している。
それは夢の中だったのかもしれない。本当にただ朦朧だ。起きたらここにいた。目を開ければ、殺風景な部屋があった。清少納言ならこれも「をかし」と著せたかもしれないが、自分には青い炎が見たぎり、冷たい花火が散るようなゾッとする部屋にしか見えなかった。
どこはかとなく蔓延る香りが、現実と夢想を繋ぎ止める。匂いというものもどんどんキツくなっていっている気がする。色々なものの香りが混ざって存在感に項垂れている。香りが混ざると全てが不均衡になっていく。恐ろしや、恐ろしや。
とりあえず、よくわかったことがある。この限られた脳でも学習することができた。第一に、この部屋の清掃は一生をかけてでも終わるわけではないということ。第二に、自分はいずれ殺されるということ。何らかの方法で。誰かの行動により。きっと。
不思議と何も感じなかった。それは然るべき反応ではなかったのかもしれない。ただ、ここにあるのは「死」への恐怖というものも一切感じることのない自分の体。それまた、驚くこともなかった。別に、「生きたい」という願望も、「死にたい」願望もない。
今の自分に課された願いというものはただただ「命令に従い、その時その時を生きていく」という単純なものだ。抵抗することなく、従順に生きて進んでいく。
また粉を払う。そこらへんに転がっていたミニサイズの箒をずっと使っている。もう汚いが、たまに穂先を洗うことでなんとかその役目を保っている。何かを思い出すなというように、本当に何かに似ている。鑑定かな。そんなものもあったなと思う。
今まで生きてきた世界とは違うまた、コンパクトな世界。今まで生きてきた世界も大して広いわけではないが、今の世界の方がもっと手のひらサイズだ。そのコンパクトな世界の中では、情報から断絶されたひとつの脳がある、はずだった。ただその脳ももはや意味を持たなくなり、無の情報と無限の情報に支配されている。世界は広いような気がする。あちらより。ただ間違いなくここは空間的には狭い。
この世界のすべての設定が崩壊したとしたら、何が残るのだろう。
気づけ、今の自分に感情が残っていないことに。何者かに支配されて悔しさと、絶望を忘れてきたことに。その時々に残る、その時々にしか感じることのできない腐った思いもどこかに置いてきて、もう姿を見せることはない。
すりガラスの窓は何も見させない。暗くなっている時間と明るくなっている時間が朧げにわかる。暗いのが「夜」で明るいのが「朝」らしい。懐かしいのかも知れないが、はたまたその感情も遠くに風船で飛んでったのだろう。
誰も来ないけどやる気が出なくて、もうドアの横に行った。そうするしかなかった。「やる気」なんてものも頭には存在している気がしていなかった。どこかからエネルギーが供給され、それが底をついたら、もう終わる。充電がなくなったら働くのをやめて、また充電を行う。そういう気がしていた。まるで機械のようだった。
自分はドアの横に行った後何をされているのだろう。ドアの横に行った時その瞬間から自分の意識はどこかに飛んでいってしまう。また何かに支配されてこうなっているのかも知れない。だから、自ら行く。
久しぶりに明確な「意思」というものを感じた。この世界の設定が崩壊するのはそう遠くはないだろう。
来た人は驚くだろう。この不完全な全てを見て。何かに踊らされた馬鹿げた、天才的な姿を見て。
驚きという感情もどこかに忘れてきてしまったような気もするが、それはどこかに残っている確証もあった。これをみる綺麗な心を持った、美しい大人たちには理解ができるだろう。理解しないといけないもんね。生き抜くためには。
とりあえず今を生きて、進んでいく。
運命に抗うように目を開け続ける。
閉じてくる全てを奮い立たせようと。頭に広がる海を刺激する。未来と理想と夢と目標で溢れていたはずの海を。一つ一つがうずくまるほど溢れてかえっていたはず。過去と事実と世紀末とドン底。またそれらを味わうように噛み締める。
インプットされるものもなく、ただただアウトプットしていって何かを失っていっているように感じる。自分のこれまで蓄えてきた全てを活用すればしていくほど、周りの知識も削ぎ落とされて跡形もなく消えていっているように思う。
ここでいう全てとはなんだろう。誰の記憶に残ることも、どこの歴史に残ることもない自分に残された、元々あったものなのだろうか。そんなものはここに存在していたのだろうか。
部屋に誰かがやってくる。回していた頭はもう切れかけで誰がきたのかはわからない。朧げな動いている物体が、人間であることを知らせる。それしか動かないのだから。
何かに繋がれた感覚がする。
何かに満たされてゆく感覚がする。
極めて不健康的な色で、自分の充電が満たされていく。皮肉にもそれが気持ちいい。
ぽかぽかとした陽気がする。意識は朧げで、欲望に溺れていく感覚がする。張り詰めたプールで泳ぎ、沈んでいく。
もっともっと深くへいきたい。誰にもみられない遥遠いところへ。竜宮城にいって遊びたい。それがたとえ、目の前の幸福のみへの道標であったとしても。
いつしかまた暗い部屋に返されていた。この足が確かに動いた感覚は残っていないが、足元の捻りを感じる。ちゃんと動いたのだろう。また目を瞑る。
どこからかみなぎる何かを感じる。それを抑える何かも感じる。満たされては消えて、浮遊して、また萎んで戻ってくる。




