5月31日
また今日もおかしかった。昨日より遅刻が四十五秒伸びた。一分の遅延。非常におかしい。そんなことはあるはずがなかった。これまでは秒も変わることなくこちらにやってきていた。それを感じている自分に寒気を感じる。
ご主人様は深く部屋の中に入って、窓を少し開けていた。こちらを見て、「換気」とボソッといった。何も見えなかった。窓の外でも何も変わっていなかったので気づきようもなかった。何も動かず、ただ静寂に。
顔はいつもと一緒だった。無愛想で、人らしさに欠ける。何かに支配されている機械のようにどこかで自分の意思関係なくただひたすらに動き続けているように感じられた。
一分の遅刻。
とりあえず掃除に取り掛かる。
いくつかの瓶が割れていた。それに気づいた。昨日までは割れていなかったと記憶する。少なくとも割れていたことには気づいていなかった。
軍手をしようか迷ったが、見つからなかったのでやめた。
また息をついて、窓の外をぼーっと眺めてみる。結局何も変わっていない。ただ、だだっ広い真っ白なキャンバスが広がっている。鉄格子をはめられているような気もした。なぜか、それに近い、透明な鉄格子。
ガラスの破片を丁寧に一つずつ拾っていく。どこかにある、ただ一つだけのピースを探していく。ピースの形はさまざまで実に興味深い。頭でそれらに知識をあてて、窓からの光をそれらに当てる。散らばった光の重なりが確かな存在感を放つ。ベールで包んで覆包む。
丁寧に拾い集めていく。やればやるほど散らばっていくように思えるのを無視して進めていく。一つずつ一つずつ。
ガラスが揺れる。白い光で脈々と順番に揺れてゆく。靡いた残像を残して、次の像へ動いていく。
綺麗な光と交わった小汚い床はその存在をかき消され、またオーラにくるまる。
「あ」
思わず声が漏れる。ガラスが右手の人差し指に突き刺さった。痛みが走る。たった一箇所の体の歪みが全身に走り全身をしびらす。ガラスを抜く。
血が出てくる。赤い。
わけもわからず無償に舐めたくなって舐める。鉄の匂いがする。甘ったるさと酸っぱさ。喉が畝って吸い込まれていく。
もう一回舐める。血はもうほとんど出ていない。粉を舐めたようなもんだ。舐めた部分だけやけに綺麗だ。甘ったるくて、苦い。血の何かがついているような気もしたが、また違う独特の深みがある。喉を鳴らせば鳴らすほど、唾液で溶ける。味が七変化する。
掃除をするふりをして、床に散らばった粉を集める。人差し指についた粉を血とともに舐める。
体がこれを求めていた。
染み渡って、広がってゆく。
どこか遠くに抜けていったような気がする。
何かが。どんどん突き放されて、底をつく音が聞こえる。跳ね返ってまた戻ってこようとするが、十分に跳ねることはできない。
何も考えていなかった。
その時弾けた。全ての光が落ちて暗くなった。視界は不明瞭だ。どこからかきていたはずの光も飛んでいった。影も現れず、真っ暗だ。
ピエロの頭が、その顔が飛んできた。ファンキーな顔が砕けて、赤い鼻が転がってくる。光はないはずだった。それでも赤さだけは鮮明に現れる。また視界に光が灯る。闇に慣れたのだろう。少しずつ明瞭に見えるようになった。帽子は換気用に旦那様が開けた窓から飛んで行って、どこに行ったのかわからない。訳のわからない粉も中から出てくる。ざらざらの荒い砂。綿毛が風に乗る。
不吉な笑みが広がっていた。ただの木片がそれを醸し出していた。
ピエロの体、全てが崩壊した。全て散り散りに砕けた。粉も吹いた。サラサラのシャラシャラだった。床は色鮮やかだった。一つ一つのくすんだ木片とビビッドな粉の色がが自己主張をしようと唸っている。五分五分。くすんでいる粉も確かに風情を放っている。
不安定な足場でも、直そうとして木片を掴んだ。足に木片が刺さってもそれどころではなかった。命令が全てであり、この世はそれら全てに支配されている。
ピエロの胴体の中には風船が入っていた。たった一本の赤い風船。それは心臓のように思えた。身体の根幹に位置して、心臓のように全てを司る。ポンプとしてなくてはならない大切な物。その赤さがまたそのように思わせられる。手にとった木片を握るしめる。上がり続ける鼓動を抑え、目の前のことに集中する。
怪しげな、いとおかしげな。何も書いていない無地の風船は何かを主張していた。ブラックライトでも当てたら何かが見えそうな気がした。描く時に鳴る、キュッキュッとなる音が聞こえる。
触れてみると風船が割れた。訳のわからない粉が出てきた。匂いも触感もバラバラ。愚かだった。なんで触ってしまったのだろう。もはや修復不可能。
得体の知れなさへの恐怖と、全てとの敗北。
恐怖という気持ちがまた襲いかかってくる。劣等感と無力感とその他諸々。
湿気の多いイカれた空気が入ってくる。また風が吹いてくる。今度はこちらに吹き込まれていく。
闇に慣れて、視界が明るく灯る。見える景色は刻々と変わっていく。時計の針が動く音が鮮明に聞こえる。カチッ、カチッと。窓の風景も見える。すりガラスの部分も鮮明に見える気がする。強い風が吹いて、葉は縦横無尽に彷徨っている。
錆びついていた蛇口からはちょぼちょぼと水が漏れている。それは澄んだものではなく、褐色だった。白褐色のようだ。粉を被ったのだろう。
燃えた。何かに引火して。何に引火したのはわからない。
建物も赤く燃えた。崩れ落ちた。気づいたら自分の体は建物の外に放り出されていた。また傷を被った。見上げた空はさっきとは違って明るかった。ただとてもじゃないけれど晴れているとは言えなかった。
青々とした隣の草原は広い。隣の花は赤い。桃源郷のようにそこに現れては消えていく。
今生きていた世界が崩れた。正確には「今まで生きていた」だ。何かから解放される感覚がする。鬱憤が抜けていく。虚しさを覚える。これまで私を悩ませていたのはなんだろうと。空っぽな心で何を考えていたの?何も詰まってない風船で。
一つ一つの記憶が朧げに現れては、鮮明に弾け、余韻だけを残して去っていく。残ったものに形あるものはない。負の遺産も代々は残らない。
残ったのは取り戻した自分の体と得体の知れない感情という名の全て。全てを支配する。可笑しい。可笑しすぎて、笑いそうだ。
遠くの熱を感じる。熱い。
何かを失う。悲しい。
また、何かを愛でればない。寂しい。
嬉しい。何かから解放されて。
進んでいく。
進んでいけるかは知らない。
進んでいく。
止まったら全ては終わる。恐ろしさと恐怖と葛藤を胸に抱かずに入られない。ね。




