第25章:忍ぶる日々の終わり
十六年。
それが晴助の失われた時間だった。
関宿を失ってから十六年。
簗田晴助は生きていた。
だが、それは生きているというより残されているに近かった。
水海城。
湿った風の吹く小さな城。
いや。
城という名の牢獄だった。
北条の監視。
失われた関宿。
戻らぬ家臣たち。
全てが終わっていた。
かつて関東を動かした男は老いた。
髪は白くなった。
背は曲がった。
歩くことすら難しい。
最近では床を離れる日も少ない。
「父上」
持助が薬を運ぶ。
晴助は小さく頷くだけだった。
かつての覇気はない。
関宿と共に魂も死んだ。
周囲の者はそう思っていた。
だが。
それは違った。
火は消えていなかった。
ただ。
灰の下で燻り続けていただけだった。
天正十八年。
正月も過ぎた頃だった。
一人の使者が水海城へ飛び込んできた。
「大変にございます!」
城内が騒然となる。
持助が使者を通した。
そして。
その報告を聞いた瞬間。
部屋の空気が変わった。
「北条が豊臣に逆らいました」
誰も声を出さない。
「秀吉公は激怒」
使者の声が震える。
「二十万を超える大軍が小田原へ向かっております!」
沈黙。
次の瞬間だった。
ガタン!
大きな音が響く。
全員が振り返る。
布団だった。
寝たきり同然だった晴助が、
自ら布団を跳ね飛ばしていた。
「持助!」
その声は大きかった。
何年も聞いたことのない声だった。
「父上!?」
持助は目を見開く。
晴助は立ち上がっていた。
ふらついている。
身体は痩せ細っている。
だが。
目だけは違った。
燃えていた。
十六年前。
関宿の城壁で北条を睨んでいた頃と同じ目だった。
「持助」
晴助は息子の腕を掴む。
骨ばった指だった。
だが異様なほど力強い。
「聞いたな」
「……はい」
「北条が終わる」
晴助の声が震える。
怒りだった。
歓喜だった。
怨念だった。
「終わるのだ」
十六年。
十六年もの間。
関宿を奪われた悔しさを飲み込んできた。
北条に頭を下げた。
監視にも耐えた。
生き恥も晒した。
全て。
全て。
この瞬間のためだった。
「天はまだ我らを見捨てておらなんだ」
晴助は笑った。
その顔を見て持助は息を呑んだ。
久しぶりだった。
本当に久しぶりに。
父が笑った。
そしてその笑みは。
かつて関東中を震え上がらせた男の笑みだった。
「使者を出せ」
晴助は即座に言った。
「浅野長政殿の陣へ」
「父上?」
「急げ」
晴助は言葉を続ける。
「我らは北条に恩などない」
「関宿を奪われた」
「仲間を殺された」
「家を潰された」
「ならば返してもらう」
持助は黙って聞いていた。
晴助の目は既に小田原を見ていた。
「下総の川」
「渡河地点」
「城の弱点」
「兵の通れる道」
「北条の癖」
「全部知っている」
晴助は胸を叩く。
「ここに入っておる」
十六年間。
忘れたことなど一日たりともない。
「豊臣に伝えよ」
晴助は静かに笑った。
「下総を案内する蜘蛛がいるとな」
その瞬間。
死を待つだけだった老人は消えた。
そこにいたのは。
かつて北条氏康を悩ませ、
関東の大河を支配し、
「水底の蜘蛛」と恐れられた簗田晴助その人だった。
そして歴史は再び動き出す。
今度こそ。
今度こそ。
簗田が北条へ返礼をする番であった。




