第26章:蜘蛛の報復
天正十八年(1590年)春。
天下人・豊臣秀吉による小田原征伐の軍勢が、東海道と東山道を埋め尽くしながら関東へ向かっていた。
その報を受けた水海城では、ひっそりと、しかし確実に動き始めた者たちがいた。
簗田晴助。
そして、その嫡男・持助である。
城の奥書院。
地図の上には無数の朱線が引かれていた。
利根川、渡良瀬川、鬼怒川。
水運の要所。
街道の分岐。
宿場。
河岸。
それは晴助が半世紀近くを費やして頭の中へ刻み込んできた関東そのものだった。
老いた指が地図の上をゆっくりとなぞる。
「持助」
「はっ」
「北条は、わしらを忘れておる」
持助は黙って頷いた。
晴助の目には、若い頃の鋭い光が宿っていた。
「十六年じゃ」
静かな声だった。
「十六年もの間、あやつらは我らを水海へ閉じ込めた」
関宿城を奪われた日。
一族が敗残兵のように移された日。
そして狭く湿った城で耐え続けた日々。
すべてが脳裏によみがえる。
だが、その声に怨嗟はなかった。
あるのは冷徹な決意だけだった。
「だからこそ勝てる」
晴助は微笑んだ。
「敵は我らを牙の抜けた老犬だと思うておる」
その笑みを見た持助は思わず背筋を震わせた。
若き日の父を知る者は、もうほとんど残っていない。
だが今、目の前にいるのは関東で北条氏康と渡り合った男だった。
「参れ」
「はっ」
「蜘蛛の糸を引く時じゃ」
その日から簗田一族は動いた。
誰にも気づかれぬように。
誰にも知られぬように。
忍びが夜の川面を渡る。
商人が荷駄隊に紛れる。
寺僧が経巻の中へ書状を隠す。
数十年かけて築き上げた人脈が、静かに息を吹き返した。
持助は豊臣方の先鋒である浅野長政、木村吉清らと密かに連絡を取り合い、下総・常陸・武蔵各地の情勢を伝え続けた。
同時に、北条方の諸将へも使者を送る。
「豊臣の大軍に抗う意味はない」
「無益な血を流すな」
「家を残せ」
それは脅しではなかった。
現実だった。
時には旧知の縁を頼り。
時には古河公方以来の恩義を語り。
時には巧みに偽の軍令さえ利用した。
一つ。
また一つ。
北条方の城が門を開く。
戦わずして。
血を流さずして。
豊臣軍はまるで見えない手に導かれるかのように関東平野を進軍していった。
やがて、その報せは小田原城へ届く。
「下総の城が開城いたしました!」
「またか!」
氏政は机を叩いた。
「どこの城だ!」
「……すでに七城」
「七城だと!?」
家臣たちは顔を見合わせた。
異常だった。
城は落ちたのではない。
自ら開いたのである。
「誰だ」
氏政が唸る。
「誰が裏で糸を引いている」
誰も答えられなかった。
だが、やがて一人の老臣が恐る恐る口を開く。
「もしや……」
「何だ」
「簗田では」
空気が凍った。
氏政は思わず立ち上がった。
「簗田だと?」
その名を聞くのも久しぶりだった。
「ばかな」
思わず笑った。
笑うしかなかった。
「あの老いぼれどもが何をできる」
だが、その嘲笑は長く続かなかった。
豊臣軍は止まらない。
補給路は断たれた。
退路は塞がれた。
関東各地の城は次々に降伏していく。
そして氏政はようやく悟る。
忘れていたのだ。
関東の川を知り尽くし。
関東の国人を知り尽くし。
関東そのものを知る男がまだ生きていたことを。
数か月後。
小田原城は二十万の大軍に包囲された。
誰も突破できない。
誰も救援に来ない。
米は尽き。
兵は疲れ果てる。
かつて北条が関宿城へ行ったことを、今度は自ら味わっていた。
外へ出られない。
助けは来ない。
ただ滅びを待つのみ。
天正十八年七月。
ついに小田原城は開城した。
百年にわたり関東を支配した小田原北条氏は滅亡した。
氏政は切腹を命じられた。
その報せが水海城へ届いたのは、蝉の声が響く暑い日の夕暮れだった。
晴助は一人、城の櫓へ登った。
西の空が赤く染まっている。
遠くには利根川が静かに流れていた。
その景色は若い頃と変わらない。
だが時代だけが変わった。
「終わったか……」
小さく呟く。
誰もいない。
風だけが吹いている。
北条氏綱。
氏康。
氏政。
関東を支配した怪物たち。
彼らと争い続けた長い人生だった。
晴助は静かに目を閉じた。
関宿城を追われた日。
飢えに苦しんだ籠城戦。
失った家臣たち。
すべてが遠い昔のことのようだった。
やがて老将は空を見上げる。
夕焼けの中を、一羽の鳥が飛んでいった。
まるで見えない糸から解き放たれたかのように。
その姿を見つめながら、晴助は静かに笑った。
「これでよい」
その声は風に溶けた。
半世紀にわたって張り巡らされた蜘蛛の糸は、ついに役目を終えたのである。




