第23章:氷の包囲網
天正二年(一五七四年)冬。
その音は最初、小さかった。
――ドン。
――ドン。
――ドン。
関宿城の天守から外を眺めていた晴助は眉をひそめた。
戦の音ではない。
鉄砲でもない。
太鼓でもない。
もっと鈍く。
もっと重い音だった。
「何の音だ」
側近へ尋ねる。
しかし誰も答えられない。
翌日。
その音は増えた。
ドン。
ドン。
ドン。
ドン。
まるで巨大な心臓が鼓動しているようだった。
昼も。
夜も。
止まらない。
そして三日目。
ついに正体が判明した。
「北条が杭を打っております」
報告に来た忍びの顔は青ざめていた。
「杭?」
「川です」
晴助は立ち上がった。
利根川。
江戸川。
渡良瀬川。
関宿を支える大河。
その各所で北条兵たちが巨大な丸太を打ち込んでいた。
数十本。
数百本。
いや。
数千本。
それは城攻めではなかった。
工事だった。
「……何をしている」
晴助は呟く。
答えはすぐに分かった。
数日後。
城へ向かう荷船が来ない。
また数日。
今度は商人が来ない。
さらに数日。
漁師の舟も来ない。
関宿を出入りしていた川の流れが、
まるで凍りついたように止まった。
「鉄鎖だと……?」
報告を受けた晴助は言葉を失った。
北条軍は杭だけではなかった。
川幅の狭い場所へ巨大な鉄鎖を渡したのである。
小舟が通れない。
荷船も通れない。
関宿水軍は初めて翼をもがれた。
夜襲もできない。
補給も届かない。
情報も入らない。
関宿最大の武器だった水路網。
それが逆に檻になっていた。
晴助は天守へ上った。
遠くを見渡す。
至る所で煙が上がっている。
杭を打つ北条兵。
資材を運ぶ荷車。
見張り櫓。
巡回船。
その全てが組織的だった。
そして晴助は悟った。
「氏康ではない」
先代の北条氏康なら攻めていた。
泥濘へ兵を送り込んでいた。
力で押し潰そうとしただろう。
だが今の敵は違う。
城を攻めない。
兵を殺さない。
ただ。
生かしたまま締め上げる。
それは蛇だった。
巨大な蛇が関宿へ巻き付き、
ゆっくりと骨を砕いていくような戦だった。
その頃。
北条本陣。
北条氏政は地図を眺めていた。
隣には氏照がいる。
「どうだ」
氏政が問う。
「もう動けませぬ」
氏照は即答した。
「簗田水軍も」
「舟が出せません」
氏政は満足そうに頷いた。
「ならば待て」
それだけだった。
「攻めなくてよい」
「飢える」
「必ず飢える」
冷たい言葉だった。
氏照ですら黙った。
それほどまでに今回の戦は徹底していた。
関宿を落とすのではない。
関宿という存在そのものを消す。
そのための包囲戦だった。
城内では兵糧蔵の確認が始まった。
米の残量。
塩の残量。
味噌。
干魚。
薬。
矢。
火薬。
数字が並ぶたびに家臣たちの顔色が悪くなる。
晴助は黙って聞いていた。
やがて全員が退出した後。
天守に一人残る。
窓の外には利根川が見えた。
簗田家を支えてきた命の川。
だが今。
その川は助けてくれない。
いや。
北条の手によって敵へ変えられていた。
「見事だな……氏政」
晴助は小さく呟いた。
認めたくはなかった。
だが認めざるを得なかった。
これは今までの戦とは違う。
関宿始まって以来の危機だった。
そしてその危機は、
まだ始まったばかりだったのである。




