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水底の蜘蛛、不屈の関宿城  作者: 水川仁


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第21章:毘沙門天の光芒

関宿城は限界だった。


兵は疲れ果てていた。


矢も尽きかけていた。


何より人の心が削られていた。


どれだけ敵を倒しても、北条軍は尽きない。


昼になれば攻めてくる。


夜になれば陣を築く。


まるで終わりのない波だった。


ある朝。


物見櫓の兵が突然叫んだ。


「敵襲!」


城内が騒然となる。


だが次の瞬間。


その声は歓喜へ変わった。


「違う!」


「北条ではない!」


「上杉だ!」


その叫びが城中を駆け巡った。


北の地平線。


無数の旗が揺れていた。


白い頭巾。


そして風にはためく一文字。


『毘』


誰も見間違えるはずがない。


上杉謙信。


再び関東へ現れたのである。


「謙信公だ!」


「援軍だ!」


「助かった!」


城内は歓声に包まれた。


泣き出す者すらいた。


絶望の中で待ち続けた希望だった。


そして。


上杉軍は到着したその日から戦った。


いや。


襲いかかったと言うべきだった。


北条軍が包囲網を維持するために広く展開していた陣地へ、謙信は容赦なく突撃した。


上杉軍の騎馬武者が疾走する。


槍が閃く。


太刀が唸る。


防備を固めていたはずの北条陣が次々と崩壊していく。


まるで暴風だった。


いや。


神罰そのものだった。


「前へ!」


謙信自身が先頭に立つ。


白頭巾が戦場を駆ける。


その姿を見た兵たちは狂ったように突撃した。


上杉軍は強かった。


圧倒的に強かった。


戦場においてのみ語るならば、まさに無敵だった。


その日の夕暮れ。


北条軍は包囲を解き後退した。


関宿は救われた。


城門が開く。


歓喜の声が響く。


晴助は城壁の上から戦場を見下ろしていた。


そして。


静かに膝をついた。


張り詰めていたものが切れた。


助かった。


本当に助かったのだ。


「……ありがたや」


頬を涙が伝った。


これで終わる。


そう思った。


誰もがそう思った。


だが。


数日後。


晴助は上杉本陣に呼ばれていた。


「これより越後へ帰る」


謙信は静かに言った。


あまりにも淡々としていた。


まるで明日の天気を語るように。


晴助は一瞬意味が分からなかった。


「……帰る?」


「うむ」


「今ですか」


「今だ」


晴助の顔から血の気が引いた。


北条軍は確かに退いた。


だが壊滅したわけではない。


氏照も氏康も生きている。


北条は必ず戻ってくる。


それは関東に生きる者なら誰でも分かることだった。


「お待ちくだされ!」


晴助は思わず立ち上がった。


「今、謙信公がお帰りになれば北条は必ず再び現れます!」


声が震えていた。


「関宿だけではございませぬ!」


「上野も下野も武蔵も!」


「皆、再び北条の報復に晒されます!」


だが謙信の表情は変わらない。


静かだった。


あまりにも静かだった。


「雪が来る」


その一言だった。


「越後を空にはできぬ」


晴助は唇を噛む。


反論できない。


越後は雪国だ。


冬を前に兵を帰さねばならない。


それは事実だった。


さらに謙信は続ける。


「それに」


視線が西へ向いた。


甲斐。


武田信玄のいる方角である。


「虎も動く」


晴助は目を閉じた。


武田。


北条。


上杉。


巨大な三頭の獣たち。


その狭間で潰されるのはいつも関東の国人だった。


「関東管領として、我が成すべきことは成した」


謙信はそう言った。


関宿を救った。


北条を退けた。


それで役目は果たした。


その言葉に偽りはない。


だが。


晴助が欲しかったのは勝利ではない。


平和だった。


「謙信公……」


声が掠れる。


しかし謙信は立ち上がった。


「達者でおられよ」


ただそれだけだった。


数日後。


上杉軍は北へ帰った。


来た時と同じように。


風のように。


嵐のように。


あまりにもあっさりと。


関宿の城壁から見送る晴助は、遠ざかる『毘』の旗を見つめ続けた。


やがて旗は地平線の向こうへ消える。


残ったのは静寂だけだった。


晴助は知っていた。


北条は戻ってくる。


必ず。


そう遠くない未来に。


そして今度は――


助けが間に合う保証はどこにもない。


関東の冬空の下。


簗田晴助は初めて悟った。


自分たちの運命を最後に守るのは、上杉でも公方でもない。


関宿自身なのだと。

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