第20章:水塞の主、泥濘に吼える
永禄四年。
北条氏照の大軍が関宿を包囲してから、すでに数か月が過ぎていた。
だが――
城は落ちなかった。
むしろ北条軍の方が苦しんでいた。
関宿城。
それは城というより、水に浮かぶ要害だった。
利根川。
江戸川。
渡良瀬川。
幾筋もの大河が絡み合い、その周囲には広大な湿地が広がる。
土地を知らぬ者には、どこが道でどこが沼かすら分からない。
そしてその地形こそが、簗田氏最大の武器であった。
「押せぇぇぇっ!」
北条兵が鬨の声を上げる。
数百の兵が城門へ向かって突撃した。
しかし。
最前列の兵が突然消えた。
「なっ!?」
腰まで泥に沈んでいた。
助けようとした隣の兵も足を取られる。
さらに後続も巻き込まれる。
あっという間に隊列が崩壊した。
その瞬間だった。
ヒュッ――
ヒュヒュヒュッ――
城壁から無数の矢が降り注ぐ。
悲鳴が上がる。
泥に捕まった兵は逃げることすらできない。
まるで射的の的だった。
「怯むな!」
城門前。
泥まみれの男が槍を振り上げる。
簗田晴助。
関宿城主その人である。
「ここを抜かれれば終わりだ!」
晴助の甲冑は血と泥で黒く汚れていた。
豪華な大名の姿ではない。
最前線で戦う一人の武者だった。
「踏み止まれ!」
槍が閃く。
北条兵が倒れる。
周囲の兵たちも雄叫びを上げた。
「おおっ!」
晴助が前にいる。
それだけで兵たちは踏み止まった。
夜になる。
だが関宿の戦は終わらない。
むしろ本番はここからだった。
月も隠れた闇夜。
静かな水面を小舟が滑る。
櫓の音すら立てない。
舟を操るのは、この地の川を知り尽くした簗田の兵たちだった。
やがて遠くに篝火が見える。
北条軍の陣地である。
舟が止まる。
兵たちは無言で火縄を確認した。
湿気から守るため油紙で包まれた火縄銃。
関宿が誇る新兵器だった。
晴助が小さく手を上げる。
そして。
振り下ろした。
「放て!」
轟音。
闇が裂けた。
無数の火花が夜空を照らす。
北条陣営で悲鳴が上がった。
「敵襲!」
「どこだ!」
「川だ!」
だが暗闇の中、小舟は見えない。
ようやく駆け出した兵たちも足を取られる。
泥。
また泥。
関宿は昼も夜も敵を選ばなかった。
混乱する北条陣へ向かい、簗田兵が舟から飛び出す。
竹槍が突き出される。
鉤縄が首に絡む。
引き倒された兵が泥へ沈む。
助けを呼ぶ声は、すぐに闇へ消えた。
北条軍は勇敢だった。
だが戦場が悪かった。
彼らは敵と戦っているのではない。
関宿そのものと戦っていたのである。
天守から戦況を見つめる晴助は、小さく息を吐いた。
勝っている。
いや。
正確には負けていない。
それだけだった。
敵は尽きない。
倒しても倒しても新たな兵が現れる。
国力の差はどうしようもなかった。
その時。
側近が口を開いた。
「殿……この戦、いつまで持ちこたえられましょうか」
晴助はしばらく答えなかった。
やがて夜空を見上げる。
その視線は北を向いていた。
越後。
上杉輝虎のいる方角である。
「来る」
静かな声だった。
「必ず来る」
側近は黙った。
晴助は続ける。
「義を重んじるあの御方が、我らを見捨てるはずがない」
それは希望だった。
あるいは祈りだった。
だが今の関宿に必要なのは、そのどちらでもあった。
「それまで持ちこたえるぞ」
晴助は拳を握る。
「一日でも長く」
関宿の兵たちも頷いた。
城はまだ立っている。
蜘蛛の巣もまだ切れていない。
そして遥か北の越後では――
再び関東へ目を向け始めた一人の龍が、静かに牙を研いでいた。




