第19章:牙を剥く相模の虎
永禄四年(一五六一年)。
関東の空を覆っていた戦雲は、一度だけ晴れた。
誰もが歴史の転換点になると信じた戦。
上杉輝虎――後の謙信。
その率いる十万を超える大軍勢が、小田原城を包囲したのである。
関東中の国人衆が続々と上杉方へ参じた。
武蔵も。
上野も。
下総も。
下野も。
反北条の旗が平野を埋め尽くした。
誰もが思った。
今度こそ北条は滅ぶ。
だが――
滅ばなかった。
小田原城は最後まで落ちなかったのである。
城内に十分な兵糧を蓄え、敵の挑発には一切乗らず、ただ耐え続ける。
その籠城策を指揮した男こそ北条氏康。
相模の虎。
関東最強と恐れられた男であった。
そして秋。
兵糧の限界を迎えた上杉軍は撤退を開始する。
関東中を震わせた大遠征は終わった。
しかし。
本当の地獄はその後に始まる。
小田原城、本丸。
氏康は静かに城門の上から西の空を眺めていた。
上杉軍最後尾の旗が視界から消える。
その瞬間だった。
氏康が口を開く。
「門を開けよ」
低い声だった。
だが周囲の家臣たちは息を呑んだ。
それは反撃開始の合図だったからである。
やがて重い城門が軋みながら開く。
閉じ込められていた猛獣が檻から放たれるように、北条軍が城外へ雪崩れ出した。
「裏切り者どもに報いを与えよ」
氏康の声が響く。
関東各地で上杉に味方した国人衆。
昨日まで北条に頭を下げていた者たち。
その全てが報復の対象であった。
城が落ちる。
館が焼ける。
首が晒される。
北条の逆襲は凄惨を極めた。
だが氏康の視線は別の場所に向いていた。
一つの城。
一人の男。
その存在だけを見ていた。
「関宿か」
家臣たちの前で氏康は呟いた。
部屋の空気が張り詰める。
誰もがその意味を理解していた。
関宿城。
坂東の大河が交わる水運の要衝。
そして。
簗田晴助。
古河公方を支える宿老。
今回の反北条包囲網を陰でまとめ上げた男。
上杉軍を関東へ招き入れた張本人。
氏康にとって最も厄介な敵であった。
「上杉は去った」
氏康は言う。
「だが蜘蛛は残った」
誰も声を発しない。
氏康の目は鋭かった。
「関東の国人どもが何故あれほど素早く動いたと思う」
沈黙。
「簗田だ」
氏康は断言した。
「奴は城を持っているのではない」
その目が細くなる。
「網を持っているのだ」
その言葉に重臣たちは頷く。
商人。
河岸。
船頭。
寺社。
国人衆。
古河公方。
晴助の糸は関東全土へ伸びていた。
一本切っても意味がない。
次の糸が現れる。
まるで蜘蛛の巣だった。
氏康はゆっくり立ち上がった。
「一国を奪うより関宿を落とせ」
広間にいた全員が顔を上げる。
「関宿を潰さぬ限り北条の天下は完成せぬ」
静かな声だった。
だが誰よりも重い言葉だった。
そして氏康は一人の男を見た。
北条氏照。
三男である。
武勇に優れ。
知略にも長ける。
後に八王子城を築く名将。
「氏照」
「はっ」
「関宿を攻めよ」
短い命令だった。
だがその意味は重い。
氏照は深々と頭を下げた。
「必ずや」
氏康は満足そうに頷く。
そして最後に呟いた。
「虎が蜘蛛を喰らうか」
窓の外を見る。
遥か北東。
利根川の向こう。
関宿城のある方角へ。
「それとも蜘蛛が虎を絡め取るか」
関東最大の知将と。
関東最強の戦国大名。
その激突が、今まさに始まろうとしていた。




