第18章:十万の軍列、最前線の旗印
永禄三年(1560年)九月。
関東の空気が変わった。
越後の龍――上杉政虎が動いたのである。
その報は、まるで乾いた草原を走る火のように瞬く間に坂東へ広がった。
「政虎が来る」
その一言だけで、多くの者が立ち上がった。
佐竹。
宇都宮。
小山。
そして安房の里見。
これまで北条の武威を恐れ、沈黙を余儀なくされていた諸将たちが次々と旗を掲げる。
やがて関東各地から集まった軍勢は大河の支流が本流へ注ぐように上杉軍へ合流し、その数は十万とも伝わる未曾有の規模へと膨れ上がった。
誰もが感じていた。
時代が動いている、と。
上杉軍は怒涛の勢いで関東を南下した。
北条方の諸城は次々と包囲され、あるいは降伏し、あるいは見捨てられた。
そしてついに。
北条氏康の本拠、小田原城が視界に現れる。
眼下に広がる城下町。
その向こうにそびえる巨大な総構え。
難攻不落を誇る北条最大の要塞。
しかし今、その城を取り囲むのは関東全土の怒りと怨嗟を集めたかのような大軍勢であった。
見渡す限りの旗。
旗。
旗。
上杉の毘の旗。
佐竹の旗。
宇都宮の旗。
里見の旗。
無数の軍旗が秋風を受けて波打つ様は、まるで大地そのものがうねっているかのようであった。
その最前列。
小田原城を真正面から睨む位置に、一つの軍勢が陣を敷いていた。
簗田軍である。
関宿城主・簗田晴助は馬上から小田原城を見つめていた。
背後には簗田家の旗印。
その傍らには、正統なる古河公方・足利藤氏がいる。
晴助はゆっくりと息を吐いた。
思えば遠い道のりだった。
父・高助の死。
北条の圧力。
孤立無援の戦い。
古河公方家の混乱。
そして越後へ送った、あの一通の密書。
全てが脳裏をよぎる。
もし一つでも歯車が狂っていたなら。
今日という日は訪れなかっただろう。
「殿」
宿老の一人が感慨深げに声をかける。
「ついに、ここまで参りましたな」
晴助は小さく頷いた。
眼前には小田原城。
その城内には、きっと北条氏康もいる。
幾度となく簗田家を追い詰めた関東最大の梟雄。
だが今は違う。
関宿だけではない。
古河だけでもない。
関東中の力がここへ集まっている。
晴助は静かに太刀の柄へ手を添えた。
「父上」
誰にも聞こえぬほど小さな声だった。
「見ておられますか」
秋風が吹き抜ける。
無数の旗が一斉に鳴った。
「あなたが守り続けた公方家は、まだ終わっておりませぬ」
その瞬間。
陣太鼓が轟いた。
ドン――
腹の底まで響く重低音。
続いて幾百、幾千の陣太鼓が呼応する。
大地が震える。
兵たちが鬨の声を上げる。
十万の軍勢が一斉に動き出したのである。
晴助は小田原城から目を離さなかった。
高助が遺した蜘蛛の糸。
それは今や一本の糸ではない。
関東中の武士たちを結ぶ巨大な網となっていた。
そしてその網は、ついに北条氏康の喉元へと絡みつこうとしていたのである。




