第17章:越後の龍への密書
永禄三年(1560年)初秋。
関宿城の奥書院にて、晴助は最後の一筆を書き終えた。
墨が乾くのを待ちながら、その内容を改めて読み返す。
そこには媚びも哀願もなかった。
記されているのはただ一つ。
古河公方家の正統を守るという決意である。
「これを春日山城へ」
呼び寄せられた忍びは静かに膝をついた。
「上杉政虎殿へ直接届けよ」
「御意」
「北条に奪われるくらいなら焼き捨てろ」
「命に代えましても」
忍びは書状を懐へ収めると、そのまま夜の闇へ消えた。
晴助は一人残された書院で、父・高助の遺言を思い出していた。
――上杉を呼べ。
あの言葉に賭けるしかない。
坂東にはもはや時間が残されていなかった。
***
数日後。
越後国・春日山城。
届けられた書状を、上杉政虎は静かに開いた。
広間にいた近習たちは主君の様子を窺う。
政虎は一言も発しない。
ただ黙々と読み進めていく。
やがて最後まで目を通すと、書状を静かに畳んだ。
「簗田晴助……」
ぽつりと漏れたその名に、近習たちは顔を見合わせた。
政虎が他国の一国人の名を口にすることは珍しい。
政虎は再び書状へ目を落とした。
そこには北条氏康の専横。
古河公方家の混乱。
そして関宿城主としての覚悟が記されていた。
政虎は小さく笑う。
「面白い」
その声は決して軽いものではなかった。
北条の勢力圏の只中で。
誰もが沈黙する中で。
なお義を語る男がいる。
それだけで十分だった。
「紙と筆を」
近習たちは目を見開いた。
政虎自ら返書を書くことは多くない。
だが主君は迷わなかった。
やがて一通の返書がしたためられる。
その文面は短い。
しかし力強かった。
『汝の志、確かに受け取った。
古河公方家のこと、忘れてはおらぬ。
時至らば、必ずや動くべし。
上杉政虎』
書き終えた政虎は筆を置いた。
窓の外では秋風が吹いている。
関東。
古河。
北条。
そして関宿。
それまで別々に見えていた点が、ゆっくりと一本の線で結ばれ始めていた。
数日後。
その返書が関宿城へ届けられる。
晴助は何度もその文を読み返した。
長い文章ではない。
だが十分だった。
高助の遺した蜘蛛の糸は切れていなかった。
その先には確かに、越後の龍がいたのである。




