第16章:水底の牙
評定が終わった後も、晴助は席を立たなかった。
広間にはもう誰もいない。
燭台の火だけが揺れ、障子の向こうでは冬の風が低く唸っている。
先ほどまで家臣たちが激しく言い争っていた声が、まだ耳の奥に残っていた。
――北条に従うべきです。
――いや、佐竹を頼るべきでしょう。
――里見と結び、時を稼ぐのです。
――今は耐えるべきです。
誰の言葉にも理があった。
だからこそ苦しい。
高助なら、もう答えを出していただろう。
だが自分は違う。
晴助は深く息を吐いた。
父が亡くなって半年。
関宿城主となった今も、自分がこの席に座る資格があるのか時折分からなくなる。
家臣たちは従ってくれている。
だがそれは自分に従っているのではない。
高助の息子だからだ。
そう思えてならなかった。
「情けないな……」
思わず漏れた声は広間に吸い込まれた。
返事はない。
あるのは風の音だけだった。
晴助は立ち上がり、奥の書庫へ向かった。
そこには高助が遺した書状や記録が保管されている。
父は何でも書き残す男だった。
どの国人が信用できるか。
どの商人が裏切るか。
どの大名が嘘をつくか。
そして、どうすれば生き残れるか。
書棚から一冊の古い帳面を取り出す。
何度も開かれた跡がある。
高助の筆跡だった。
晴助は静かに頁をめくった。
そこに書かれていたのは軍略でも財政でもなかった。
短い言葉だった。
『一人で戦うな』
『力なき者は群れよ』
『敵の敵を味方とせよ』
晴助は思わず苦笑した。
父らしい。
奇策だの謀略だのと恐れられた男が、最後に残した教えは実に単純だった。
だが、それだけに重い。
今の関宿に北条と戦う力はない。
その現実を認めなければならない。
認めた上で戦うしかない。
帳面を閉じた時だった。
廊下を走る足音が聞こえた。
やがて障子が静かに開く。
現れたのは若い小姓だった。
「殿」
「どうした」
「藤氏様がお目通りを願っております」
晴助の表情が変わった。
足利藤氏。
本来ならば古河公方となるべき若君。
今は北条に追われ、この関宿で匿われている。
「お通ししろ」
しばらくして藤氏が現れた。
まだ若い。
だがその瞳には年齢以上の陰があった。
父を奪われ。
地位を奪われ。
故郷を追われた男の目だった。
二人はしばらく無言で向かい合った。
先に口を開いたのは藤氏だった。
「晴助殿」
「なんでしょう」
「私は北条へ参ります」
晴助は眉をひそめた。
「何を仰るのです」
「私がいなければ争いは終わります」
藤氏は静かに続けた。
「義氏が公方となった以上、私の存在は簗田家に災いを招くだけです」
晴助は何も言わない。
藤氏はさらに言った。
「関宿を危険に晒してまで、私を守る理由はありません」
その瞬間だった。
晴助は立ち上がった。
畳を打つ音が静かな部屋に響く。
藤氏が驚いたように顔を上げた。
「そのようなことは二度と申されるな」
低い声だった。
しかし怒気を孕んでいた。
「殿……」
「藤氏様は公方家の嫡流です」
晴助は真っ直ぐ藤氏を見据えた。
「北条が何を言おうと、それは変わらぬ」
「しかし――」
「簗田は公方家を売りませぬ」
言葉は鋭く、迷いがなかった。
藤氏は息を呑む。
晴助自身も驚いていた。
先ほどまで迷っていたはずだった。
だが口にした瞬間、はっきり分かった。
ここだけは譲れない。
父が守ったもの。
簗田家が代々守ってきたもの。
それを自分の代で手放すわけにはいかなかった。
しばらくして藤氏は深々と頭を下げた。
「……失礼いたしました」
晴助はゆっくりと頷いた。
藤氏が去った後。
再び静寂が訪れる。
窓の外では利根川の霧が濃くなっていた。
晴助は広間の壁に掛けられた関東の地図へ目を向ける。
南には小田原。
北条氏康。
巨大な怪物。
そのさらに北。
山々の向こう。
雪深き越後。
父が最後に遺した言葉が脳裏によみがえる。
――上杉を呼べ。
晴助は地図の北を見つめた。
越後。
長尾景虎。
いや。
今は上杉政虎。
その男の名を思い浮かべる。
「父上……」
静かな呟きが漏れた。
「あなたは何故、あの男を選んだのですか」
答える者はいない。
だが晴助の胸の奥では、何かが少しずつ形を成し始めていた。
それはまだ細い糸だった。
しかし確かに北へと伸びていた。
雪の国へ。
そして、後に越後の龍と呼ばれる男のもとへ。




