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水底の蜘蛛、不屈の関宿城  作者: 水川仁


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第14章:遺された水底の城

永禄二年(1559年)冬。


関宿城は深い霧に包まれていた。


利根川から立ち上る白い靄が、城下も河岸も飲み込み、世界を水底へ沈めたように見せている。


高助が世を去ってから半年。


関宿城の主は、すでに簗田晴助へと代わっていた。


だが、坂東の情勢は亡き父を悼む暇など与えてはくれない。


「またか」


晴助は机上に置かれた書状を見つめた。


小田原から届いた使者が持参したものだった。


差出人の名はない。


だが、誰の意向によるものかは明白だった。


北条氏康。


関東を呑み込もうとする男からの誘いである。


書状には丁寧な言葉が並んでいた。


古河公方家との争いを望まぬこと。


関宿との友好を重んじること。


簗田家の存続を願っていること。


どれも美しい文句だった。


だが晴助は鼻で笑った。


「友好、か」


父ならばこう言っただろう。


――甘い蜜ほど疑え。


北条氏康という男は、武力だけで勢力を広げたのではない。


婚姻。


調略。


外交。


あらゆる手を使い、敵を味方へ変えてきた。


そして一度味方になった者は、気付けば北条の網の中にいる。


関宿もまた、その網に絡め取られようとしていた。


「返書は不要です」


側近の一人が顔を上げた。


「しかし殿、無視すれば北条の心証が……」


「構わぬ」


晴助は言い切った。


「返事を書けば期待を持たせる」


部屋に沈黙が落ちる。


誰もが分かっていた。


北条に逆らうことの危険を。


そして北条に従うことの危険を。


どちらも容易な道ではない。


晴助は立ち上がり、窓辺へ歩いた。


霧の向こうで川の流れる音が聞こえる。


父は生涯、この城を守り続けた。


古河公方家を守るために。


簗田家が生き残るために。


そして死の間際、ただ一つの命令を遺した。


――上杉を呼べ。


晴助はその言葉を忘れてはいない。


忘れられるはずもなかった。


だが問題は、どうやって越後を動かすかだった。


長尾景虎。


越後の龍。


武名は関東中に轟いている。


しかし関宿が助けを求めたところで、簡単に動く相手ではない。


「景虎殿への使者は」


晴助が問う。


「まだ戻りませぬ」


家臣が答えた。


これで三度目だった。


最初の使者は返答を持たず帰還した。


二度目は越後へ辿り着いたものの面会すら叶わなかった。


そして三度目。


未だ音沙汰がない。


晴助は唇を噛んだ。


北条は待ってくれない。


関東の国人たちは次々と小田原へ頭を下げている。


古河公方家の威光は日に日に弱まっていた。


残された時間は多くない。


その時だった。


廊下の向こうで慌ただしい足音が響く。


障子が開かれ、一人の若侍が飛び込んできた。


「殿!」


息を切らしたその顔には、興奮と驚愕が入り混じっていた。


「越後より使者が参りました!」


晴助の目が見開かれる。


部屋の空気が変わった。


家臣たちも一斉に顔を上げる。


「まことか」


「はっ!」


若侍は深く頭を下げた。


「長尾景虎様の使者にございます!」


晴助は思わず拳を握った。


父が遺した最後の一手。


それがようやく動き始めたのだ。


窓の外を見る。


相変わらず霧は深い。


だがその向こうで、確かに風向きが変わり始めていた。


やがてこの風は坂東全土を揺るがすことになる。


そしてその始まりは――。


利根川のほとりに浮かぶ、小さな水底の城からだった。


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