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水底の蜘蛛、不屈の関宿城  作者: 水川仁


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第13章:巨星落つ、そして呪縛の遺言

天文十年代も半ばを過ぎた頃。


季節が巡るたび、高助の身体は目に見えて衰えていった。


長年にわたる政務。


そして北条氏康との、一瞬たりとも気の抜けない外交戦。


それらは老いた肉体を静かに蝕んでいた。


かつて関東を影から動かした男は、今や病床から起き上がることもできない。


関宿城奥御殿。


薄暗い寝所で、高助は枕元に控える嫡男・晴助を見つめていた。


「晴助」


「はい、父上」


高助は痩せ細った手を伸ばした。


晴助がその手を握る。


骨ばった指先は驚くほど冷たかった。


「わしの時代は終わる」


その言葉に晴助は顔を上げた。


高助が弱音を吐く姿など見たことがない。


だが老いた父の瞳には、もはや誤魔化しの利かぬ死の色があった。


「氏康は強い」


高助はゆっくりと言った。


「わしは公方を縛った。だが奴は関東そのものを呑み込もうとしておる」


咳が込み上げる。


晴助が身を乗り出した。


しかし高助は首を振った。


「関宿を失えば終わりだ」


短い言葉だった。


「公方も終わる。簗田も終わる」


その一言一言が、晴助の胸に重く沈んでいく。


「父上……私はまだ未熟です」


思わず漏れた本音だった。


「北条を相手に、一人で戦えるほどの力などありません」


高助はかすかに笑った。


「未熟でよい」


その声は意外なほど穏やかだった。


「わしも若い頃は未熟だった」


しばらく沈黙する。


そして再び目を開いた。


その瞳には、かつて坂東を震え上がらせた策士の光が宿っていた。


「だが覚えておけ」


高助は息子の手を強く握った。


「これからの戦は知恵だけでは勝てぬ」


晴助は黙って耳を傾けた。


「上杉を呼べ」


一瞬、部屋の空気が止まった。


「……上杉を」


「そうだ」


高助は頷いた。


「越後の龍を関東へ呼べ」


その言葉には、死にゆく老人の願いではなく、一族の命運を賭けた最後の命令が込められていた。


「氏康を止められるのは、あの男しかおらぬ」


高助の声は次第に細くなる。


「どんな手を使ってもよい」


呼吸が乱れる。


それでも彼は言葉を絞り出した。


「北条を……止めろ……」


それが最後だった。


高助の手から力が抜ける。


静寂が部屋を包んだ。


簗田高助、死す。


その報は瞬く間に坂東へ広がった。


表向きには古河公方家の重臣が病没したに過ぎない。


だが誰もが理解していた。


関東の均衡を支えていた一本の柱が失われたのだと。


「あの関宿の蜘蛛が死んだか」


諸将はそう囁いた。


そして誰もが同じ未来を思い描いていた。


これからは北条の時代になる。


だが、その予想は半ばしか当たっていなかった。


関宿城は沈黙しなかった。


主を失った城門には、新たな当主が立っていた。


関宿城主・簗田晴助。


父の遺言を背負う男である。


晴助は城壁の上から南を見た。


遠く小田原。


そこには関東制覇を目指す北条氏康がいる。


「父上」


誰もいない空へ向かって呟く。


「私は逃げません」


冷たい川風が吹き抜けた。


「簗田の糸は、まだ切れておりませぬ」


それは決意であり、誓いだった。


父が生涯をかけて築いたもの。


公方家との絆。


関宿という要衝。


そのすべてを守り抜く覚悟が、若き当主の胸にはあった。


南の空には黒雲が広がっている。


戦乱の雲だった。


だが晴助は目を逸らさない。


「北条氏康」


その名を静かに口にする。


「いずれ決着をつけましょう」


声は風に消えた。


しかしその誓いは消えなかった。


高助の蜘蛛の糸は確かに切れた。


だが、その糸を受け継ぐ者がいた。


関宿城にはまだ蜘蛛がいる。


しかも今度の蜘蛛は、父の遺した執念と共に、新たな網を張ろうとしていた。


後に関東は、この遺言によって大きく動く。


越後の龍、長尾景虎――後の上杉謙信が関東へ乗り出すのである。

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