第12章:小田原の怪物の模倣と、二重婚姻の罠
北条氏綱が世を去り、その跡を継いだ嫡男・北条氏康が全権を握ると、北条家の公方工作は新たな段階へと入った。
氏康という男は、父以上の怪物だった。
武勇に優れるだけではない。
外交においてもまた、並外れた才覚を備えていた。
氏康は古河公方・足利晴氏に対し、自らの妹を正室として迎えるよう強く求めた。
その背後には、関東諸将を震え上がらせる北条の軍事力がある。
拒むという選択肢は、もはや存在しなかった。
これが後に関東の命運を左右することとなる、「二重婚姻」の始まりであった。
「正室の座を北条に奪われるとは……」
古河御所は、この婚姻を境に二つに割れた。
簗田の血を引く側室の子・藤氏を推す者たち。
そして、北条の血を引く正室の子・義氏を推す者たち。
一つの公方家の中で、簗田と北条の血が激しくぶつかり合う。
後継者争いは避けられぬものとなった。
高助が生涯をかけて築き上げた血の牙城。
それが今、北条の圧倒的な武力と外交工作によって、根元から揺さぶられていた。
「簗田殿、このままでは……我らが積み上げてきたものが、すべて水泡に帰します」
家老の一人が声を震わせた。
高助は静かに目を閉じた。
脳裏に浮かぶのは、小田原城で不敵に笑う若き当主・氏康の姿だった。
「北条は……我らの真似をしたのだ」
高助はぽつりと呟いた。
その声音には絶望と、どこか奇妙な納得が入り混じっていた。
「婚姻で公方を縛る。それは、かつて我らが用いた手法よ」
しばし沈黙した後、高助は続ける。
「だが、北条は違う。我らが蜘蛛の糸で縛ったものを、奴らは鉄鎖で縛り上げに来た」
部屋に重い沈黙が落ちた。
策そのものに大きな違いはない。
違うのは、その背後にある力だった。
簗田の策は知略によって成り立つ。
北条の策は知略に加え、圧倒的な武力によって支えられている。
その差はあまりにも大きかった。
「公方様は、いったいどうお考えなのでしょう」
誰かが恐る恐る口を開いた。
「我らを見捨てられるおつもりなのですか」
高助は首を横に振った。
「いや」
短い言葉だった。
「公方様は今なお我らを頼っておられる」
しかし、その言葉には希望の色がなかった。
晴氏の信頼が簗田に向いていたとしても、それだけで北条に対抗できるわけではない。
人の心を握ることと、天下の勢力を動かすことは別だった。
「北条の娘が正室となれば、芳春院様は……」
家老の問いに、高助は即座に答えた。
「側室となる」
冷酷な現実だった。
だが高助の表情は動かない。
「それでも構わぬ」
家臣たちは驚いて顔を上げた。
「藤氏様が公方職を継がれるならば、簗田の血は公方家に残る。勝負はまだ終わっておらぬ」
しかし別の家臣が低く言った。
「北条は義氏様を押し立てるでしょう」
「当然だ」
高助は静かに頷いた。
「奴らは格式そのものを書き換えるつもりなのだ」
高助はゆっくりと立ち上がった。
老いた身体ではあったが、その瞳にはまだ炎が残っている。
「北条は、公方家を我らから奪おうとしている」
低い声が奥書院に響く。
「だが、我らもただ喉を差し出すつもりはない」
窓の外では利根川の流れが静かに続いていた。
「蜘蛛の糸が切れるならば、また新たな糸を張ればよい」
その濁った瞳の奥に、かつて関東を震え上がらせた策士の光が、一瞬だけ鋭く宿った。




