第10章:巨魁との対峙
戦後、凱旋という名目で関宿城を訪れた北条氏綱、そしてその息子である氏康の姿を、高助は冷や汗が背を伝うのを必死に堪えながら、能面のような笑みを浮かべて見つめていた。
城内に足を踏み入れた北条の軍勢は、それまでの関東の国人衆とはまるで違っていた。
甲冑の様式は実用性を極限まで追求され、無駄な装飾を削ぎ落としている。
掲げられた「三つ鱗」の旗印は統制を乱さず、兵たちの佇まいには、徹底した訓練の跡が見て取れた。
血統の貴さを誇る古豪どもとは違い、彼らは「合理的な暴力」という力そのものを誇っていた。
「簗田殿、見事な城だ」
大広間の上座で、北条氏綱がゆっくりと口を開いた。
その声は低く、地を這うような重みがあり、周囲の空気を圧するほどの威圧感を帯びていた。
「この関宿があれば、関東の水運、流通のすべてが我が手のものとなるな」
その言葉は、同盟者への褒め言葉のように聞こえながら、その実、あからさまな「要求」であり「脅迫」であった。
高助は、その言葉の裏にある「いつでもこの城を奪えるのだぞ」という刃の冷たさを、正確に理解していた。
「滅相もございません。お言葉、恐れ入ります」
高助は、完璧な臣下の礼をとり、恭順の態度を微塵も崩さずに答えた。
だが、その平伏した頭の中で、無数の策略の糸が目まぐるしく交差していた。
「国府台の戦いにおける、簗田殿の見事な手引きとご協力、まことにありがたかった。公方様への忠義、しかと見届けた」
氏綱はそう言いながら、鋭い鷹のような目で、関宿城の堅固な構造をじっと値踏みするように見つめていた。
天守の高さ、幾重にも巡らされた堀の深さ、そして江戸川と利根川に挟まれた天然の要害――すべてが、第一級の戦略的価値を物語っている。
「この城は、まさに坂東の喉元だな」
「ははっ。過分なお言葉。ですが、この関宿は浅瀬も多く、治水と管理には並大抵ならぬ労苦が伴います。我が簗田が公方様よりお預かりし、辛うじて維持しているに過ぎませぬ」
高助は、あえて「この地を管理するのは容易ではない」と釘を刺すことで、北条が直接支配に乗り出すことへの牽制とした。
この関宿を握る者こそが関東の経済を握るのだと、無言の内に主張していた。
「ふむ……」
氏綱は、それ以上は追及せず、不敵な笑みを漏らすに留めた。
だが、その眼光には、いずれこの地を小田原の版図に組み込まんとする、底知れぬ野心がぎらつりと光っていた。
一方、その傍らに控えていた若き嫡男・北条氏康は、さらに露骨だった。
彼はぎらつく瑞々しい眼光で、城下を流れる関宿の滔々たる川面を見つめ、不敵に唇を歪めた。
「父上、あの川の流れを見てください。上流からどれほどの米が、どれほどの絹や塩が、あの水の上を流れていくか……」
氏康の声には、若き覇者が持つ特有の興奮と、驚くほど冷徹な経済的計算が同居していた。
「この関宿という『堰』を押さえさえすれば、戦わずして関東の諸大名の腹を握ることができます。干殺しにすることなど造作もない」
その言葉は、高助の耳元で鳴らされた明確な警告であった。
だが、水底の蜘蛛は、表情の筋肉一つ動かさなかった。
「氏康殿、仰る通り、ここは豊潤な富が流れる地にございます。ですが、この関宿はただの富の源泉ではございませぬ。
暴れ川を鎮め、関東の平和と流通を守るための、重き『錨』にございます。荒荒しく扱えば、水はたちまち牙を剥きましょう」
「平和、ですか」
氏康は、高助の言葉をなぞるように、からかうような笑みを浮かべた。
「簗田殿は、そのお年にしては、ずいぶんと綺麗なお言葉がお好きなようだ」
「左様にございます。戦乱は、田畑を荒らし、関所を閉ざし、結果として我らの富をも失わせます。
この関宿が正しく機能してこそ、この狂った時代でも、民も、我ら武士も生き延びることができるのです」
高助の言葉は、一見すると、老獪な政治家の説教じみた綺麗事に聞こえた。
だが、その言葉の芯には、水運の利権を何が何でも死守するという、簗田家当主としての執念が込められていた。
「ふむ……」
氏康は、それ以上は言葉を返さなかった。
だが、その若き大将の目には、高助という「蜘蛛」に対する、尽きない興味と、最大級の警戒が同時に宿っていた。
「簗田殿は、噂に違わぬ、なかなか一筋縄ではいかぬお方のようだ」
「もったいないお言葉にございます」
高助は、再び深く、深く頭を下げた。
だが、板敷きに身を伏せた彼の脳裏では、冷や汗を拭う暇もなく、次なる謀略の絵図が立ち上がっていた。
この若い男……氏康という男は、父・氏綱以上に危険だ。
牙を隠すことすら楽しんでいる。
小田原の怪物が関宿を呑み込む前に、北条が武力で坂東を縛るならば自分は別の糸で坂東を縛る。
高助は静かにそう決意していた。




