第9章:国府台の決断
天文七年(1538年)。
古河公方に対抗し、みずからを「小弓公方」と称する足利義明が、ついに本格的な反旗を翻す。
関東の平野に、再び血生臭い戦の気配が立ち込める。
公方家の内紛は、かつての享徳の乱のような骨肉の争いを人々に思い起こさせ、去就に迷う諸大名の心を激しく揺さぶった。
「義明公が、房総の兵を集めて北上していると……」
「今度は、足利のどちらの血筋に付くべきか」
関宿城の評定の間には、連日のように錯綜する噂や密書が届く。
高助は、それらの情報を、一つも漏らさず脳内の天秤にかけていた。
「義明公は、確かに公方の血を引く勇猛な将だ。だが、その誇り高き血が、この飢えた関東を救うとは限らぬ。むしろ、古い秩序に固執する血こそが、乱世を長引かせる毒よ」
高助は、誰もいない夜の書状部屋で静かに呟いた。
彼の冷徹な目には、すでに古河でも小弓でもない、第三の選択肢がはっきりと映っていた。
北条氏綱。
南からすべてを飲み込まんとして迫りくる、あの新興勢力の頭領である。
義明公を討つだけなら難しくはない。
問題は、その後に誰が関東を支配するかだ。
高助は、一瞬の迷いもなかった。
古河公方家の内紛という古い泥沼に、またもや付き合って共倒れになるよりも、関東の新たな覇者となるであろう力と手を組む方が、関宿簗田家にとってはるかに有利だ
――そう冷酷に計算を弾き出した。
「北条氏綱と密約を結ぶ」
その決断を告げたとき、宿老たちは色を失って驚愕した。
「お館様、北条は……あまりに油断ならぬ怪物にございますぞ!」
「彼らと手を組めば、義明公を退けた後、いずれ我が簗田もその巨体に飲み込まれるかもしれませぬ」
高助は、ゆっくりと首を振った。その目は一点の曇りもない。
「飲み込まれるかどうかは、これからの我らの手綱捌き次第だ。虎の尾を踏む怖れを抱いて、目の前の狼に噛み殺される愚を犯すな。今は、義明公を討つことが先決だ」
高助は、隠密を通じて北条氏綱へ極秘の書状を送った。
義明を逆賊として討ち、その後に訪れる利権を北条と分かち合う――。
表向きは、古河公方の正統性を守るための、大義名分に基づいた出兵である。
だがその実は、関宿という「水運の心臓」を握る簗田と、小田原の「武力」が結びつく、新たな時代への危険な布石であった。
そして迎えた、国府台の戦い。
利根川と江戸川が交わり、関東の水流が一点に集まるその要衝の地で、足利義明の軍勢と、北条・簗田の連合軍が激突した。
戦場は、激しい川風に煽られ、立ち上る土煙と、肉を裂く血の匂いが混じり合って混沌を極めた。
高助自身は前線で槍を振るう武人ではなかった。
だが国府台近くの陣所に身を置き、刻々と届く戦況を睨み続けていた。
戦場で血を流すことはなくとも、この戦の行く末を最も強く左右しているのは、他ならぬ自分だという自負があった。
彼の頭脳の中にある戦盤の上では、戦の行く末が、初めから寸分の狂いもなく描き上げられていた。
義明は最後まで退かなかった。
しかし北条軍の統制は崩れず、やがて小弓勢は押し潰される。
足利義明は討死。
勝敗は決した。
関東の平野に、再び静けさが戻る。
しかし、その静けさは、かつての平和とは似て非なる、嵐の前の静寂であった。
「これで、しばしは……」
家老の一人が、またしても安堵の息を漏らす。
だが、高助は、冷ややかな視線を投げかけるだけで、やはり頷かなかった。
「馬鹿者が。これからが、本当の生き残りをかけた戦いだ」
高助は静かに立ち上がった。
義明は滅んだ。
だが、高助が恐れていたものは消えていない。
むしろ今、この勝利によって、さらに巨大になった。
北条である。
遠く南の街道の彼方。
勝利の余勢を駆る軍勢の地響きが、高助には確かに聞こえていた。
それは味方の軍勢の足音ではない。
やがて関東そのものを飲み込もうとする、大きな波の響きだった。




