記憶の商人 前編
探偵事務所で独り、みすずは小さな手で大きなマグカップを持ち上げた。
ずしりと大きなそれを両手で支えると、柑橘類の爽やかな香りが漂ってくる。
熱い紅茶をひとくち含むその間も、みすずは机の資料から視線を離さなかった。
「犯人か……」
依頼された事件の捜査資料を睨みつけ、みすずは呻いた。
依頼主から伝えられた謎めいた言葉が、みすずの鼓膜に貼りついて離れない。
執務机の上に散らばった資料を眺めていると、事務所のドアベルが鳴った。
「ただいま」
「おつかれさまです」
部屋に入ってきたのは、スキンヘッドに浅黒い肌をした大男のデイブだ。
「この前の浮気調査。依頼人の勘違いということで決着したよ」
デイブの報告に、みすずは満足げに頷いた。
「喧嘩にならなくて良かったですね」
「ところで、その資料はなんだ? 新しい仕事か?」
デイブはみすずの対面に座りつつ言った。
「ええ。警察から依頼です」
「いつもの警部さんの頼みか。どんな依頼だ?」
わざとらしく言葉を溜めるみすず。その暗い赤髪が楽しそうに跳ねた。
「記憶を売買するビジネスが、最近流行ってるらしいんです!」
「……なるほど。記憶ってあれか? パソコンのメモリとかの――」
「人間の脳みその方ですよ」
「今回も遺物絡みか。……それで? 小銭稼ぎしてるヤツを捕まえるのに、俺たちの手を貸してほしいと?」
「ええ。でももったいないですよね。面白そうなのに」
「そーゆーわけにはいかないだろう。触れそうな法律がいくつかある」
無認可の医療行為、傷害事件、詐欺。たとえ法律に載ってなくても倫理に反している。挙げたら切りがない。
「わかってますよ。記憶を購入した人の家族から相談があったんです。まるで別人になってしまったらしいと」
「そういうことは早く言えよ。で、遺物の詳細は?」
姿勢を正して言ったデイブに対し、みすずは不貞腐れたように口を開いた。
「なーんにも。……分かっているのは人の記憶をコピーして、他人に与えることができるってことだけです」
「なるほど。外見も効果もよくわからないものを探すのか。骨が折れそうだ」
デイブは渋い顔をした。今わかっていることも、状況からの推測にすぎない。
しかし、みすずは興味津々な様子で言った。
「でも、いろいろ楽しそうですよ。どんな記憶が売買されていたのか見てくださいよ」
みすずはデイブに資料を手渡した。
「今の人気商品はトレジャーハンターの記憶か」
「難破船を見つけたハンターに成りきって、お宝を手にするのは、さぞ楽しいでしょうね」
「ずいぶん手広くやってるなぁ。そんなに記憶を買い取っていたら、すぐに足が付きそうだが」
「かなり大きな組織らしくて、ブローカーは毎回別人。捕まるのは組織の末端ばかりで、元締めは捕まらないんだとか。それで捜査が行き詰って私のところに話が来た次第です」
「なるほどな」
みすずとデイブは捜査資料に書かれた事件のあらましに目を通した。
資料によれば、記憶を売った人間は皆、自宅ポストに広告が入れられていたらしい。
「記憶を売る方も売る方だな。よくそんな怪しいやつ信じるよ」
「最近は遺物を使ったビジネスが流行ってますからねぇ。抵抗感が薄いんでしょう」
これまでに捕らえたブローカーは、そうした記憶を買い取るために来たところを捕まえられたとのことだった。
しかし、これまで得られた供述は、どれも元締めに繋がるものではなかった。
二人は頭を抱えた。こんなに少ない情報では遺物の考察もできやしない。
みすずは紅茶を啜ってから口を開いた。
「……もし買えるなら、デイブはどんな記憶にします?」
「オレか? そうだな。……掃除のプロのやつかな」
デイブは散らかった事務所を見回して言った。
「あー。まじめですね」
「でも実用的だろ? 何十万も出して映画一本みる程度の楽しみより、その後の生活を豊かにする方がいいだろう」
「いやいや、映画も人生を豊かにしますって!」
「否定はしない。オレも映画は好きだよ。暴走したAIとか、空飛ぶ巨大サメを倒す方法とか学べるし」
デイブの皮肉に、みすずは笑った。
「でももっと良いアイデアありますよ」
「というと?」
「美味しいものをたくさん食べる記憶です」
「……それは魅力的だな。けど腹にたまらないんじゃ意味ないだろう」
「ところがですね。『空腹は最高のスパイス』って言うじゃないですか」
「まさか」
「そう。食べたら満腹になってしまいますが、記憶だけならずっと空腹なんです! つまりずっと最高のスパイスをかけた状態で最高の料理を堪能できるってことなんですよ!」
「なるほど実用的だ」
そこでみすずは、ふと何かに気付いた素振りをみせた。
「でも……たしかに言えてますね。わざわざ怪しい組織に頼ってまで、どうして記憶を手に入れるんでしょう?」
「映画以上の魅力があるんじゃないのか? 中には娯楽だけじゃなく、記憶や技能を追体験して得ることが目的の奴もいるだろうし」
「やっぱりできますよね。金儲け」
みすずは考え込んでから続ける。
「たとえば学校教育に使えます。より平等で良質な講義を受けられるのは魅力的ですよね」
「最高だな。教師の負担はかなり減るだろうし、オンライン授業と違って人との関わりも学べる。本人に成りきれるんだ。これなら社会性の勉強もできる」
「失敗しても何度でもリトライできるのも利点ですね」
色々想像が膨らんで、会話に熱が入った二人はしかし、ふと冷静になった。
「まさか、やりたいなんて言わないよな」
デイブの牽制に、みすずはぎこちない笑みを浮かべた。
「いや、やらないやらない。そんなことしたら警部に殺されますよ。社会的に」
「……しかし、誰にでも成れるのは魅力的だな」
「ええ。こんなの誰でもやってみたいですよねぇ」
「そのうちどれが本当の自分の記憶かわからなくなりそうだ」
デイブの言葉に、みすずは思案げに頷いた。
「ああ、利用者の中には、記憶が混濁している人がいたらしいですよ。記憶は人格の形成に関わるから」
そこでみすずは、はっと顔を上げて言った。
「捕まらないんじゃない。捕まっていない人に成ったんです」
「ん? どういうことだ?」
「犯人は捕まりそうになるたびに、自分の記憶を他人に写してたとしたらどうでしょう。そして自分自身の記憶は他人のものに書き換える。組織の末端という偽の記憶に」
「ちょ。ちょっとまってくれ。それじゃあ犯人は組織じゃなく個人ってことになるのか!?」
「ええ。捕まえたブローカーの供述自体が、捜査をかく乱するための罠だったとしたら……」
組織の人間も遺物を使っているはず。その可能性にみすずは気付いたのだ。
「記憶を写された被害者が、次の犯人となって事業を引き継ぐ……。肉体をただの入れ物としか考えていない、まるで妖怪みたいなやつだな」
「だから記憶を買い取りにくる人が毎回違ったんでしょう」
「しかし……この仮説が正しいとして、体を乗り換える奴をどうやって捕まえる? 犯人が遺物を持っているかぎり、どんなヤツに成っているかわからないぞ。今の犯人の体を特定しないことにはどうにもできないんじゃないか?」
「警察官を客として潜り込まれば――」
「危険すぎる。それに、警察の捜査状況を読まれるかもしれない」
「たしかに。……でも、囮捜査官に発信機でもつけて、そいつの体に入ってもらえれば楽だと思ったんですがね」
「もちろん次の自分候補は慎重に選んでいるだろう。他人と関わりが少なければ、人格が変わっても気付かれにくい」
みすずはニヤリと笑って言った。
「なら、確実に次の犯人に選ばれるヤツを送りこめばいい」
「そんなヤツがいるのか?」
「いるじゃないですか。犯人の記憶と深く結びついた人が」




