選ばれていたのは、私だった
朝、目が覚めた瞬間から胸の奥が重かった。
昨日見た写真が、頭から離れない。
駅の近くの店。テーブルに映り込んでいた腕。あの時計。
(偶然なわけない)
そう思っているのに、どこかで否定したかった。
「ママ、起きて」
子どもの声で、現実に引き戻される。
「……うん」
いつも通りに動こうとするのに、体が少しだけ重い。
朝ごはんを用意して、送り出す準備をする。
全部、昨日と同じはずなのに、何かが違って見えた。
園に向かう道で、子どもがぽつりと言った。
「ママ、あの人またいるかな」
「……誰?」
「美月ママ」
胸がわずかにざわつく。
「どうして?」
「優しいから」
その言葉に、何も返せなかった。
園の門をくぐると、やはり視線が集まった。
昨日よりも、はっきりと分かる。
避けられている。
話しかけられない。
でも、見られている。
「おはようございます」
声をかけても、返事は短い。
それ以上、続かない。
教室の前で立ち止まると、誰かの声が聞こえた。
「やっぱりあの人なんだって」
「昨日のも見た?」
「ほら、SNS」
心臓が大きく鳴る。
(SNS……?)
嫌な予感がして、スマホを取り出した。
美月のアカウントを開く。
昨日の投稿の下に、新しいストーリーが上がっていた。
再生する指が、少し震える。
短い動画。
笑い声。
グラスが触れる音。
そして、一瞬だけ映り込んだ横顔。
見間違えるはずがなかった。
健太だった。
息が止まる。
画面を閉じることもできず、そのまま固まる。
(なんで……)
頭の中が真っ白になる。
そのとき。
「真央さん」
すぐ後ろから声がした。
振り向くと、美月が立っていた。
「どうしました?顔色悪いですよ」
心配そうな顔。
でも、その目の奥を見てしまった気がした。
「……これ」
思わずスマホを見せそうになって、止める。
何をしているのか分からなくなる。
「大丈夫ですか?」
もう一度、同じ言葉。
優しい声。
でも、逃げ場がない。
「……昨日、どこにいたの?」
気づけば、口にしていた。
美月は一瞬だけ、驚いたような顔をした。
すぐに、柔らかく笑う。
「昨日ですか?普通にご飯に行ってただけですよ」
「誰と?」
少しだけ間があった。
「知り合いの方と」
曖昧な答え。
それ以上は言わない。
「……そう」
それ以上、聞けなかった。
ここで問い詰めても、何も出てこない。
むしろ、自分がおかしい人になる。
その空気が、はっきりと分かる。
「無理しないでくださいね」
また、その言葉。
それを残して、美月は他の母親たちの方へ歩いていった。
すぐに輪の中心に入る。
笑い声が広がる。
その光景を見ていると、足元が揺れるような感覚になった。
(全部、あの人が)
噂も。
視線も。
空気も。
気づけば、全部変えられていた。
昼過ぎ。
スマホが鳴る。
グループLINEだった。
『昨日の投稿見た?』
『やっぱりそういう感じなんだね』
『子どもいるのに大丈夫なのかな』
何のことか、分かってしまう。
でも、それは私のこととして話されていた。
(違うのに)
否定したいのに、言葉が出てこない。
何を言っても、言い訳にしかならない気がした。
そのとき、個別メッセージが届く。
美月だった。
『あまり気にしないでくださいね』
『みんな、少し誤解しているだけなので』
画面を見つめたまま、指が止まる。
(誤解じゃないでしょ)
そう打ちそうになって、消した。
送った瞬間、終わる気がした。
夕方、迎えに行くと、子どもが小さな声で言った。
「今日ね、仲間外れにされた」
胸が強く締めつけられる。
「どうして?」
「ママがダメだからって」
言葉が出なかった。
頭の中で、何かが切れる音がした。
(私のせい……?)
違う。
違うのに。
でも、そう思わせられている。
帰り道、何も話せなかった。
子どもの手が、少しだけ強く握られているのを感じた。
家に帰っても、その感覚が離れない。
夜。
健太からメッセージが来た。
『今日は帰らない』
短い一文。
理由もない。
説明もない。
スマホを握る手が震える。
(もう隠さないんだ)
そのとき、ふと気づいた。
最初からだったのかもしれない。
出会ったときから。
距離を詰めてきたときから。
褒めてきたときから。
全部。
全部が。
(選ばれてたんだ)
偶然じゃない。
たまたまでもない。
最初から、決められていた。
私が。
壊される側に。




