知りすぎている女
その夜、健太の帰りは遅かった。
時計の針が日付を越えても、リビングの明かりだけが残っている。
(遅い……)
何度もスマホを見ては、置いた。
やがて、玄関の鍵が回る音がした。
「ただいま」
「……おかえり」
コートを脱ぎながら、健太は少しだけ疲れた顔をしていた。
「遅かったね」
「仕事」
短い返事。いつもと同じはずなのに、どこか距離を感じる。
「ご飯、温める?」
「いい、軽く食べてきた」
その言葉に、胸が引っかかった。
「……誰と?」
思わず聞いてしまってから、しまったと思った。
健太が一瞬だけ、こちらを見る。
「会社のやつら」
それ以上は何も言わなかった。
(本当……?)
疑いたくないのに、疑ってしまう。
翌朝。
「パパ、最近帰り遅いね」
子どもの何気ない一言に、空気が止まった。
「そうだな」
健太はそれだけ言って、コーヒーを口にした。
「昨日もいなかったし」
「……仕事だよ」
やや強めの口調。
子どもが黙り込む。
「ごめん、ちょっと忙しくて」
フォローのつもりなのか、視線を逸らしたまま言った。
その様子が、余計に違和感を残した。
園へ向かう道。
「ママ、今日も遅い?」
「遅くならないよ」
そう答えながら、胸の奥が重くなる。
園の門の前で、美月が立っていた。
「おはようございます」
いつも通りの笑顔。
「……おはよう」
できるだけ普通に返す。
「昨日、旦那さん遅かったんですね」
その一言で、足が止まった。
「え?」
「ちょっと見かけちゃって。駅の近くで」
さらりと言う。
心臓が大きく鳴った。
「……そうなんだ」
それ以上、言葉が続かない。
「お仕事大変そうでした」
にこりと微笑む。
(どうして、そんなことまで知ってるの)
教室の前で、他の母親たちが話している声が聞こえた。
「やっぱりそうなんだ」
「ね、聞いた?」
視線が、こちらに向く。
すぐに逸らされる。
その日の昼、またグループLINEが動いた。
『最近、夜も一人で子ども見てるって』
『旦那さん帰ってこないの?』
『ちょっと普通じゃないよね』
息が詰まる。
(違う……)
違うのに、何も言えない。
そのとき、個別メッセージが届く。
美月だった。
『大丈夫ですか?』
『無理しないでくださいね』
また、このタイミング。
既読をつけるのも、ためらった。
夕方、健太からメッセージが来た。
『今日も遅くなる』
短い一文。
理由も書かれていない。
画面を見つめたまま、動けなかった。
迎えに行くと、子どもが言った。
「今日ね、美月ママといっぱい話したよ」
「……そうなんだ」
「パパのことも知ってた」
一瞬、息が止まった。
「え?」
「優しいよねって言ってた」
帰り道、頭の中が真っ白だった。
(なんで……)
家に帰っても、落ち着かない。
夜、健太が帰ってきた。
「ただいま」
「……おかえり」
その顔を見た瞬間、言葉が出た。
「昨日、駅の近くにいた?」
健太の動きが止まる。
「……誰に聞いた?」
その返しで、確信に変わった。
「美月さん」
沈黙。
「……たまたまだろ」
目を逸らしたまま言う。
(たまたま、じゃない)
胸の奥で、何かが崩れる音がした。
その夜、眠れなかった。
隣で眠る健太の寝息が、遠く感じる。
スマホを手に取る。
画面に映るのは、美月の名前。
“知りすぎている”。
その言葉が、頭から離れない。
もしも全部が、繋がっているとしたら。
考えたくない想像が、ゆっくりと形になっていく。
これは偶然なんかじゃない。
仕組まれている。




