優しい顔の裏で広まる噂
翌朝、目が覚めた瞬間、昨日のことを思い出した。夫と、美月が繋がっていた。
ただのSNSの「友達」かもしれない。そう思おうとしても、胸の奥がざわついて落ち着かない。
(考えすぎだよね)
自分に言い聞かせながら、子どもの支度をする。
「ママ、今日お迎え誰?」
「ママだよ」
「そっか」
少しだけ、残念そうな顔をした。
「……どうしたの?」
「昨日ね、美月ママが来てくれたの」
一瞬、手が止まった。
「え?」
「優しかったよ。お菓子くれた」
そんな話、聞いていない。
(なんで……?)
園に着くと、いつもの空気が少し違っていた。視線が合うのに逸らされる。小さな違和感が、確かなものに変わっていく。
「おはようございます」
声をかけても、
「あ、おはよう……」
どこかよそよそしい。
「真央さん」
振り向くと、美月がいた。いつも通り、完璧な笑顔で。
「昨日、少しだけお迎え手伝っちゃいました。ごめんなさい、連絡しようと思ったんですけど」
悪びれる様子はない。むしろ気遣いの顔だった。
「……そうなんだ」
言葉がうまく出てこない。
「お子さん、一人で待ってて寂しそうだったから」
その一言に、胸が締めつけられた。
(私が悪いみたいじゃん)
帰ろうとしたとき、背後から声が聞こえた。
「やっぱり忙しい人なんだね」
小さな声だったけど、はっきり聞こえた。
その日の昼過ぎ、スマホが鳴った。ママ友グループのLINE。
何気なく開いて、固まった。
『最近、子ども一人で待たせてるって本当?』
『ちょっと心配だよね』
『仕事大変なのかな』
画面をスクロールする指が震える。誰も、私に直接は聞いてこない。ただ、「心配している風」の言葉が並んでいる。
——でも、それは全部、私の話だった。
「違う……」
思わず声が漏れた。そんなこと、一度もない。昨日だって、たまたま少し遅れただけで。
そのとき、通知が重なった。美月からの個別メッセージ。
『大丈夫ですか?』
『無理してませんか?』
画面を見つめたまま、動けなかった。
(なんで、このタイミングで……)
指がゆっくりと動く。返信しようとして、止まる。
“この人は、本当に心配してるの?”
次の瞬間、また通知が鳴った。
『みんな、ちょっと誤解してるみたいで』
『私からもフォローしておきますね』
その一文で、背筋が冷えた。
(……誰が広めたの?)
考えなくても、答えは出てしまう。
夕方、迎えに行くと、子どもがぽつりと言った。
「ママ、また遅いの?」
「え?」
「みんな言ってたよ。ママ、あんまり来ないって」
息が止まった。
(違うのに)
否定する言葉が出てこない。
周りを見ると、数人の母親たちがこちらを見ていた。すぐに視線を逸らされる。
その中に、美月もいた。
優しく微笑みながら、こちらを見ている。
「真央さん」
近づいてきて、小さな声で言った。
「無理しなくていいんですよ」
その言葉は優しいはずなのに、どこか違った。
まるで、“できていない人”にかける言葉みたいだった。
帰り道、子どもの手を引きながら、何も話せなかった。
家に着いても、胸のざわつきは消えない。
夜。健太はまだ帰っていなかった。
スマホを見ると、また通知が増えている。グループLINEの新しいメッセージ。
『あの人、大丈夫なのかな』
『ちょっと距離置いた方がいいかもね』
その中に、一つだけ見覚えのあるアイコンがあった。
美月だった。
『私も少し心配です』
『でも、あまり言いすぎるのも良くないですよね』
止めているふり。
その一文で、はっきりした。
この人は、“広げている側”だ。
スマホを握る手に力が入る。
(なんで……)
理由はまだわからない。
でも一つだけ確かなことがあった。
このままじゃ、全部奪われる。
気づいたときには、もう遅いのかもしれない。
それでも私は、まだ何も知らなかった。
この噂が、ほんの始まりにすぎないことを。




