転落
美月が笑った瞬間、空気が変わった。
涙を流しているのに。
目だけが完全に冷えていた。
「私だけ捨てるんだ?」
低い声。
健太の顔が引きつる。
「美月……」
「黙って」
即座に遮る。
今までの甘い声じゃない。
完全に別人だった。
真央は黙って二人を見ている。
もう口を挟む気にもならない。
美月はゆっくり健太に近づいた。
「最初に連絡してきたの誰?」
健太が答えられない。
「相談あるって毎日LINEしてきたの誰?」
追い詰めるように続ける。
「奥さんとうまくいってないって言ったの誰?」
健太が顔を逸らす。
その瞬間。
美月が笑った。
乾いた笑い。
「ねえ、なんで私だけ悪者なの?」
その声には、本気の怒りが混ざっていた。
「私は最初、断ったよね?」
真央の視線が健太へ向く。
健太が固まる。
「……」
否定できない。
美月はもう止まらなかった。
「家まで来たよね?」
「園のあと待ち伏せしたよね?」
「好きだって言ったよね?」
一つずつ。
逃げ道を塞ぐみたいに。
健太の顔色がどんどん悪くなる。
真央はその姿を見て、静かに息を吐いた。
(やっぱり)
全部、美月だけが仕掛けたわけじゃない。
健太も、自分から沈んでいた。
そのとき。
美月がスマホを取り出した。
「これ、見せようか?」
健太の表情が変わる。
明らかに。
「やめろ」
初めて強い声を出す。
でも。
美月は笑った。
「なんで?」
画面を開く。
トーク履歴。
大量のLINE。
スクロールが止まらない。
真央の視界が揺れる。
そこには。
『早く会いたい』
『もう夫婦として終わってる』
『美月といる方が楽』
全部。
健太から送られていた。
真央の呼吸が浅くなる。
でも。
不思議と涙は出ない。
完全に、壊れ切っていた。
「違……」
健太が何か言おうとする。
その瞬間。
美月がスマホを思いきり床に投げた。
鈍い音。
全員が固まる。
「何が違うの!?」
絶叫。
近所に響くほどの声。
「私だけ全部失うの!?」
涙と怒鳴り声が混ざる。
完全に壊れていた。
「園も!」
「友達も!」
「子どもの居場所も!」
「全部なくなったのに!」
息を荒くしながら叫ぶ。
真央は動けなかった。
美月はもう、まともじゃない。
「なのにあんたは戻るの!?」
健太の胸を押す。
「ふざけんなよ!!」
健太がよろめく。
そのとき。
隣の家の窓が開いた。
視線。
人影。
誰かが見ている。
でも、美月は止まらない。
「奥さんにバレた瞬間、全部私に押し付けて!」
「最初に好きって言ったのそっちじゃん!」
「離婚するって言ったじゃん!!」
真央の頭が真っ白になる。
離婚。
そこまで言っていた。
健太は何も言えない。
完全に追い込まれていた。
美月は泣きながら笑う。
壊れたみたいに。
「最低……」
小さく呟く。
「ほんと最低」
その言葉が。
誰に向けたものなのか、もう分からなかった。
数秒後。
美月はふらつきながら後ろへ下がる。
「……もういい」
かすれた声。
「全部終わればいい」
真央が息を飲む。
危うい。
本能的にそう感じる。
でも。
美月はそのまま出ていった。
裸足のまま。
スマホも拾わずに。
夜道へ消えていく。
誰も追いかけられなかった。
静寂。
重い沈黙。
残ったのは。
崩れ切った健太だけだった。




