唇に宿る毒
人間というものは、どうしてこうも自己欺瞞に満ちた生き物なのだろうか。
殊に、男女の情愛という不可解な迷路に足を踏み入れたが最後、自らに迫り来る破滅の足音すらも、甘美な子守唄のように錯覚してしまうのである。
*
大正十四年、初冬。
横濱の街は、海から這い上がってきたような重い霧に包まれていた。
私は瓦斯灯のぼんやりとした灯りが滲む洋館の一室で、冷え切った珈琲の黒い水面を見つめながら、つい数日前に起きたあの奇怪な事件の調書を、頭の中で反芻していた。
私の友人であった貿易商の郷田が、自邸の書斎で死んだのは先週の木曜日のことである。
死因は服毒。
警察の調べによれば、阿片の密造ルートから流れたとされる、東洋の珍しい植物性の猛毒であったという。
それは極めて即効性が高く、同時に舌が痺れるほどの強烈な「苦味」を伴う代物だった。
不思議なのは、その毒が「いかにして郷田の体内に入ったのか」という点であった。
発見時、密室状態であった書斎の机には、彼がいつも愛飲していたブラジル産の珈琲が、九分通り残された状態で冷めきっていた。
警察は真っ先に珈琲への毒の混入を疑ったが、成分からは一滴の毒も検出されなかった。
次に疑われたのは、卓上に置かれた切子硝子の砂糖壺である。
郷田は異常なほどの甘党であり、真っ黒な珈琲に、琥珀色をしたジャワ産の粗糖——いわゆるブラウン・シュガーを、山のように入れて飲むのが常であった。
しかし、砂糖壺の中の結晶もまた、無害な純潔を保っていた。
珈琲でもない、砂糖でもない。
晩餐の食事にも異常はなく、郷田の気難しい性格からして、出所不明のものを不用意に口にするとは到底思えない。
警察は迷宮入りの様相を呈し始め、結局は「貿易上のトラブルによる、巧妙な偽装自殺」という無理のある結論へと傾きつつあった。
だが、私は知っていた。
これが決して自殺などではないことを。
そして、この不可解な密室の毒殺劇を仕組むことができる人間が、この世にただ一人しかいないということを。
郷田の若き後妻、晶子である。
没落した華族の令嬢であった晶子は、借金の肩代わりとして、二回りも歳の離れた成金である郷田に買い取られた、いわば美しい籠の鳥であった。
透き通るような白い肌に、いつも深い憂愁を湛えた双眸。
彼女が身に纏う薄紫の銘仙からは、いつも微かにヘリオトロープの香りがした。
私は郷田の屋敷に招かれるたび、彼女のその物憂げな視線に、どうしようもなく惹きつけられていた。
私たちはお互いに言葉には出さずとも、視線の交錯だけで、ある種の共犯めいた情欲を育てていたのである。
事件から十日が過ぎた夜、私は郷田の未亡人となった彼女を、山手の瀟洒なホテルの一室に呼び出した。
真実を問いただすためではない。
真実を知りながら、彼女を抱くためである。
私は、友人の死を差し置いてでも、その美しい毒婦を自分のものにしたかったのだ。恥の多い、浅ましい男の欲望である。
部屋を訪れた晶子は、喪服ではなく、燃えるような緋色の着物に、黒い天鵞絨のショールを羽織っていた。
「お呼び立てして、申し訳ない」
私がそう切り出すと、晶子はふわりと微笑み、何も言わずに洋風の長椅子に腰を下ろした。
「郷田の死について、警察は自殺だと言っている。……だが、君は知っているはずだ。彼が死の直前、誰と会っていたのかを」
私の探るような言葉に、晶子は答えない。
代わりに、彼女は帯の間から、小さな銀色のピルケースを取り出した。
パチン、と小気味よい音を立てて蓋を開けると、そこには彼女が日頃から愛好している、大粒のブラウン・シュガーの結晶が詰まっていた。
彼女は幼い子供のように、時折こうして砂糖の塊をそのまま口に含む癖があったのだ。
彼女は細い指先で琥珀色の結晶を一つ摘み上げると、自らの赤い唇の間にそっと含んだ。
そして、ころころと舌の上で転がしながら、蠱惑的な声で囁いた。
「主人は、苦いものが大嫌いでしたのよ。人生の苦労はもう十分に味わったから、口に入れるものは甘くなければならないと、いつもそう仰っていましたわ」
「……だから、珈琲にはいつも大量の砂糖を入れていた」
「ええ。でも、あの日、主人の珈琲にはお砂糖が入っていなかったでしょう?」
私の背筋に、冷たいものが走った。
そうだ。
調書によれば、現場の珈琲は「ブラック」のままであった。
甘党の郷田が、なぜあの日だけ、苦い珈琲をそのまま放置していたのか。
「ねえ、先生」
晶子が立ち上がり、私の方へと歩み寄ってきた。
ヘリオトロープの香りと、彼女の体温が、私の理性を真綿のように締め付けていく。
「もっとも完璧な嘘は、真実の甘さの中に隠すものですわ」
彼女は私の目の前で立ち止まり、ふと、背伸びをして私の首に白い腕を絡ませた。
顔が近づく。
彼女の吐息から、焦げたような砂糖の甘い匂いが漂ってきた。
その瞬間、私の脳裏に雷光のような閃きが走った。
——毒の出処。
——密室の謎。
——強烈な苦味を持つ毒薬。
「……まさか」
私は戦慄に身を震わせた。
珈琲に毒が入っていなかったのではない。
砂糖壺に毒が仕込まれていたのでもない。
晶子は、自らの『口の中』に毒を隠していたのだ。
強烈な苦味を持つ致死の毒を、大量のブラウン・シュガーの甘味で包み込み、自らの舌の上に留めておく。
そして、書斎にいる郷田の元へ行き、甘い珈琲を求める彼の唇を塞ぎ……その毒を、直接口移しで流し込んだのだ。
郷田は、愛する若妻からの甘く官能的な口付けに陶酔しながら、致死量の毒を飲み下した。
珈琲に砂糖が入っていなかったのは当然だ。
郷田が求めた甘さは、カップの中ではなく、妻の唇の中にあったのだから。
彼女が毒を飲み込まなかったのは、事前に解毒剤を飲んでいたか、あるいは即座に吐き出したからだろう。
「君が……君の唇が、凶器だったのか」
私が掠れた声で呟くと、晶子は蠱惑的な微笑を崩さないまま、私の顔を両手で包み込んだ。
「先生も、甘いものがお嫌い?」
彼女の唇が、私の唇に触れる寸前まで近づく。
その吐息には、むせ返るようなブラウン・シュガーの甘さと共に、微かに、ほんの微かに、金属が錆びたような、あるいは血が腐ったような、毒の苦い匂いが混じっていた。
私は突き飛ばすべきだった。
警察を呼び、この美しい殺人鬼を告発すべきだった。
彼女は私を愛してなどいない。
郷田の死の真相に気づいた私を、同じ手口で葬り去ろうとしているだけなのだ。
だが、私は逃げなかった。
夏目漱石の小説の主人公たちが、己の罪悪感に苛まれながらも運命に絡め取られていくように。
あるいは太宰の描く道化たちが、自ら進んで破滅の淵へと身を投じるように。
彼女の瞳の奥に広がる、虚無という名の暗闇。
その底知れぬ魅力に、私は完全に魅入られていた。
自分がただの滑稽な犠牲者であることなど、とうの昔に理解している。
それでも、この甘美な毒婦の唇から与えられる死ならば、どれほど孤独な生涯の終わりよりも、美しく、艶やかなものに思えたのだ。
「いいや……」
私は自嘲気味に笑い、晶子の細い腰を強く抱き寄せた。
「これほど甘い誘惑なら、喜んで飲み干そう」
窓の外では、横濱の海を濡らす霧雨が、静かに、ただ静かに降り続いていた。
私は目を閉じ、自らの命を奪うであろうその甘く、そしてひどく苦いブラウン・シュガーの結晶ごと、彼女の冷たい唇を貪った。




