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Brown Sugar  作者: 水色蛍
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唇に宿る毒

人間というものは、どうしてこうも自己欺瞞に満ちた生き物なのだろうか。


殊に、男女の情愛という不可解な迷路に足を踏み入れたが最後、自らに迫り来る破滅の足音すらも、甘美な子守唄のように錯覚してしまうのである。



大正十四年、初冬。


横濱の街は、海から這い上がってきたような重い霧に包まれていた。


私は瓦斯灯がすとうのぼんやりとした灯りが滲む洋館の一室で、冷え切った珈琲の黒い水面を見つめながら、つい数日前に起きたあの奇怪な事件の調書を、頭の中で反芻していた。


私の友人であった貿易商の郷田ごうだが、自邸の書斎で死んだのは先週の木曜日のことである。


死因は服毒。


警察の調べによれば、阿片の密造ルートから流れたとされる、東洋の珍しい植物性の猛毒であったという。


それは極めて即効性が高く、同時に舌が痺れるほどの強烈な「苦味」を伴う代物だった。


不思議なのは、その毒が「いかにして郷田の体内に入ったのか」という点であった。


発見時、密室状態であった書斎の机には、彼がいつも愛飲していたブラジル産の珈琲が、九分通り残された状態で冷めきっていた。


警察は真っ先に珈琲への毒の混入を疑ったが、成分からは一滴の毒も検出されなかった。


次に疑われたのは、卓上に置かれた切子硝子キリコガラスの砂糖壺である。


郷田は異常なほどの甘党であり、真っ黒な珈琲に、琥珀色をしたジャワ産の粗糖——いわゆるブラウン・シュガーを、山のように入れて飲むのが常であった。


しかし、砂糖壺の中の結晶もまた、無害な純潔を保っていた。


珈琲でもない、砂糖でもない。

晩餐の食事にも異常はなく、郷田の気難しい性格からして、出所不明のものを不用意に口にするとは到底思えない。


警察は迷宮入りの様相を呈し始め、結局は「貿易上のトラブルによる、巧妙な偽装自殺」という無理のある結論へと傾きつつあった。


だが、私は知っていた。


これが決して自殺などではないことを。


そして、この不可解な密室の毒殺劇を仕組むことができる人間が、この世にただ一人しかいないということを。



郷田の若き後妻、晶子あきこである。



没落した華族の令嬢であった晶子は、借金の肩代わりとして、二回りも歳の離れた成金である郷田に買い取られた、いわば美しい籠の鳥であった。


透き通るような白い肌に、いつも深い憂愁を湛えた双眸。

彼女が身に纏う薄紫の銘仙からは、いつも微かにヘリオトロープの香りがした。


私は郷田の屋敷に招かれるたび、彼女のその物憂げな視線に、どうしようもなく惹きつけられていた。


私たちはお互いに言葉には出さずとも、視線の交錯だけで、ある種の共犯めいた情欲を育てていたのである。


事件から十日が過ぎた夜、私は郷田の未亡人となった彼女を、山手の瀟洒なホテルの一室に呼び出した。


真実を問いただすためではない。


真実を知りながら、彼女を抱くためである。


私は、友人の死を差し置いてでも、その美しい毒婦を自分のものにしたかったのだ。恥の多い、浅ましい男の欲望である。


部屋を訪れた晶子は、喪服ではなく、燃えるような緋色の着物に、黒い天鵞絨びろうどのショールを羽織っていた。


「お呼び立てして、申し訳ない」


私がそう切り出すと、晶子はふわりと微笑み、何も言わずに洋風の長椅子に腰を下ろした。


「郷田の死について、警察は自殺だと言っている。……だが、君は知っているはずだ。彼が死の直前、誰と会っていたのかを」


私の探るような言葉に、晶子は答えない。

代わりに、彼女は帯の間から、小さな銀色のピルケースを取り出した。


パチン、と小気味よい音を立てて蓋を開けると、そこには彼女が日頃から愛好している、大粒のブラウン・シュガーの結晶が詰まっていた。


彼女は幼い子供のように、時折こうして砂糖の塊をそのまま口に含む癖があったのだ。


彼女は細い指先で琥珀色の結晶を一つ摘み上げると、自らの赤い唇の間にそっと含んだ。


そして、ころころと舌の上で転がしながら、蠱惑的な声で囁いた。


「主人は、苦いものが大嫌いでしたのよ。人生の苦労はもう十分に味わったから、口に入れるものは甘くなければならないと、いつもそう仰っていましたわ」


「……だから、珈琲にはいつも大量の砂糖を入れていた」


「ええ。でも、あの日、主人の珈琲にはお砂糖が入っていなかったでしょう?」


私の背筋に、冷たいものが走った。


そうだ。

調書によれば、現場の珈琲は「ブラック」のままであった。

甘党の郷田が、なぜあの日だけ、苦い珈琲をそのまま放置していたのか。


「ねえ、先生」


晶子が立ち上がり、私の方へと歩み寄ってきた。

ヘリオトロープの香りと、彼女の体温が、私の理性を真綿のように締め付けていく。


「もっとも完璧な嘘は、真実の甘さの中に隠すものですわ」


彼女は私の目の前で立ち止まり、ふと、背伸びをして私の首に白い腕を絡ませた。


顔が近づく。


彼女の吐息から、焦げたような砂糖の甘い匂いが漂ってきた。


その瞬間、私の脳裏に雷光のような閃きが走った。


——毒の出処。

——密室の謎。

——強烈な苦味を持つ毒薬。


「……まさか」


私は戦慄に身を震わせた。

珈琲に毒が入っていなかったのではない。

砂糖壺に毒が仕込まれていたのでもない。


晶子は、自らの『口の中』に毒を隠していたのだ。


強烈な苦味を持つ致死の毒を、大量のブラウン・シュガーの甘味で包み込み、自らの舌の上に留めておく。


そして、書斎にいる郷田の元へ行き、甘い珈琲を求める彼の唇を塞ぎ……その毒を、直接口移しで流し込んだのだ。


郷田は、愛する若妻からの甘く官能的な口付けに陶酔しながら、致死量の毒を飲み下した。


珈琲に砂糖が入っていなかったのは当然だ。


郷田が求めた甘さは、カップの中ではなく、妻の唇の中にあったのだから。


彼女が毒を飲み込まなかったのは、事前に解毒剤を飲んでいたか、あるいは即座に吐き出したからだろう。


「君が……君の唇が、凶器だったのか」


私が掠れた声で呟くと、晶子は蠱惑的な微笑を崩さないまま、私の顔を両手で包み込んだ。


「先生も、甘いものがお嫌い?」


彼女の唇が、私の唇に触れる寸前まで近づく。


その吐息には、むせ返るようなブラウン・シュガーの甘さと共に、微かに、ほんの微かに、金属が錆びたような、あるいは血が腐ったような、毒の苦い匂いが混じっていた。


私は突き飛ばすべきだった。


警察を呼び、この美しい殺人鬼を告発すべきだった。


彼女は私を愛してなどいない。

郷田の死の真相に気づいた私を、同じ手口で葬り去ろうとしているだけなのだ。


だが、私は逃げなかった。


夏目漱石の小説の主人公たちが、己の罪悪感に苛まれながらも運命に絡め取られていくように。


あるいは太宰の描く道化たちが、自ら進んで破滅の淵へと身を投じるように。


彼女の瞳の奥に広がる、虚無という名の暗闇。


その底知れぬ魅力に、私は完全に魅入られていた。


自分がただの滑稽な犠牲者であることなど、とうの昔に理解している。


それでも、この甘美な毒婦の唇から与えられる死ならば、どれほど孤独な生涯の終わりよりも、美しく、艶やかなものに思えたのだ。


「いいや……」


私は自嘲気味に笑い、晶子の細い腰を強く抱き寄せた。


「これほど甘い誘惑なら、喜んで飲み干そう」


窓の外では、横濱の海を濡らす霧雨が、静かに、ただ静かに降り続いていた。


私は目を閉じ、自らの命を奪うであろうその甘く、そしてひどく苦いブラウン・シュガーの結晶ごと、彼女の冷たい唇を貪った。

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