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Brown Sugar  作者: 水色蛍
1/3

Brown Sugar

1893年、ある毒物学者はその手記にこう記している。


『最も完璧な致死薬は、甘美な記憶の形をしてやってくる』――と。


✴︎


この街の雨は、決して汚れを洗い流すことはない。


ただ、アスファルトに染み付いた排気ガスと安酒の匂いを、

ねっとりと大気に溶かし込むだけだ。


深夜二時。

地下にあるジャズバー『ザ・ホロウ』は、いつも紫色の煙に満たされている。


客たちが吐き出すゴロワーズやジタンの重い煙が、

天井の低い空間で層をなし淀んでいる。


私はその煙の底に沈むようにして、黄ばんだ象牙の鍵盤に指を這わせていた。


弾いているのは、マイルス・デイヴィスの『ブルー・イン・グリーン』。


ひどく遅いテンポで。



私の左手には、深くえぐれたような古い傷痕がある。


そのせいで、かつてのように速いパッセージを弾くことはもうできない。


けれど、この掃き溜めのような店に集まる客たちは誰も正確な音符など求めていなかった。


彼らが欲しいのは、自分たちの嘘や後悔を覆い隠してくれる心地よいノイズだけだ。


彼女が初めて店に現れたのも、そんな雨の降るひどくカビ臭い夜だった。


雨水を吸って重くなったキャメルのコート。

濡れた黒髪。

ビロードのような褐色の肌。


彼女は迷うことなくカウンターの右端――

一番薄暗い席に座り、ダブルのエスプレッソを注文した。


マスターが黒く濁った液体と、小さな陶器の皿を差し出す。


彼女は細く青白い指先で、小皿からブラウンシュガーの結晶を三つ、つまみ上げた。


そして、一つ、また一つと、

静かにカップの中へ落としていく。


かき混ぜない。


添えられた銀色のスプーンには指一本触れず

彼女はただ漆黒の泥のようなエスプレッソの中でざらついた甘い結晶がゆっくりと崩れ溶けていくのを、じっと見つめていた。


まるで、何か神聖な儀式でも執り行うかのように。


「もう少し、遅く」


それが、彼女が私にかけた最初の言葉だった。


声帯に古いやすりをかけたようなひどく掠れた

けれど耳の奥にねばりつくような甘い声。


私は無言で頷き、テンポをさらに落とした。


和音と和音の隙間が間延びし、不協和音すれすれのところで揺れる。


彼女はその危うい均衡を好んだ。


彼女は名前を名乗らなかったし、私も聞かなかった。


私たちは言葉ではなく音と匂いで互いの輪郭をなぞった。


彼女が店に来る夜、私は決まって彼女のための和音を弾き、

彼女は時折グラスの氷を鳴らす音に合わせて、低くハミングをこぼした。


その声は、ブラウンシュガーそのものだった。


甘く、ざらついていて、そして暴力的なまでに私の脳髄を痺れさせた。


いつしか、彼女は営業が終わった後の私の部屋に上がり込むようになっていた。


私の部屋は古いレコードの埃と、安物のバーボンの匂いが染み付いていた。


私たちは、暗闇の中で互いの欠落を貪り合った。


彼女のシーツの下の素肌は、いつもひどく冷たかった。


私が左手の傷ついた指で彼女の背中をなぞると

彼女は微かに身をよじり私の肩に深く爪を立てた。


彼女の首筋からは、雨の日のアスファルトと

微かなバニラの匂いがした。


それは愛というより、共犯関係に近い執着だった。


私は彼女のハミングがなければ鍵盤を叩く意味を見失い

彼女もまた、私の奏でる淀んだコード進行の中でしか呼吸ができないように見えた。


「音楽が好きなわけじゃないの」


ある夜、湿ったシーツに包まりながら彼女は天井の染みを見つめてポツリと言った。


窓の外からは、遠くのハイウェイを走るトラックの重低音が響いている。


「音が、世界を塗りつぶしてくれる瞬間が好きなの。嫌な記憶も、血の匂いも、全部ノイズの奥に隠してくれるから」


「何を隠したい?」


私が問うと、彼女はゆっくりとこちらを向き

夜の底をくり抜いたような瞳で私を見つめた。


「……秘密」


彼女は私の唇を塞いだ。


そのキスは、ひどく甘く、同時に鉄の錆のような味がした。


彼女が姿を消したのは

それから一ヶ月後のことだ。


いつもと同じ夜だった。


同じように雨が降り、同じように煙が充満していた。


ただ、午前二時を過ぎても、カウンターの右端に彼女の姿はなかった。


翌日も、その次の日も、彼女は現れなかった。


部屋には、彼女が忘れていったキャメルのコートと、使いかけのルージュだけが残されていた。


煙が空気に溶けてなくなるように、彼女は私の前から完全に蒸発してしまった。


私は街を彷徨った。


彼女の匂いを探して、ネオンが明滅する路地裏を歩き回った。


だが、誰も彼女を知らなかった。


まるで最初からあんな女は存在しなかったかのように。


私の左手は痙攣し、ピアノのタッチは日を追うごとに狂っていった。


彼女という麻薬を絶たれた禁断症状だった。


一週間が過ぎた深夜。


私は彼女のキャメルのコートを抱き寄せ、そのポケットに手を入れた。


指先が、硬い紙切れに触れた。


引きずり出してみると、それは一枚の質札だった。


宛先は、隣町の場末にある薄汚れた質屋。


翌朝、私はその質屋へ向かい僅かな金と引き換えに一つの小さな紙箱を受け取った。


箱の中に入っていたのは、見覚えのない銀色のシガレットケース。


そして、几帳面に折り畳まれた、十年前の新聞の切り抜きだった。


『老舗ジャズクラブ経営者、自宅で不審死。毒殺の可能性』

『同居していた専属歌手の女は行方不明』


色褪せたインクで刷られた記事。


そこに添えられた粗いモノクロ写真には、若き日の彼女が写っていた。


瞳の奥に冷たい光を宿した

見間違えようのない彼女の顔が。


記事の続きを目で追う。

凶器は、遅効性の神経毒。

それは、被害者が毎晩好んで飲んでいたコーヒーの『砂糖』に偽装されていた、と書かれている。


私は、息を呑んだ。


シガレットケースの底には、もう一つ、小さなカセットテープが隠されていた。


私は震える手でそれを持ち帰り、部屋の埃を被ったデッキに押し込んだ。

再生ボタンを押す。


スピーカーから、サーッというテープのヒスノイズが流れる。


そして。


『……もう少し、遅く』


彼女の声だった。


私に向けられたものではない、十年前の彼女の声。


それに続いて、重苦しいピアノの和音が鳴り響いた。


私がいつも弾いていたのと同じ、不協和音すれすれの、間延びしたコード進行。


その背後で、男のくぐもった呻き声が聞こえた。

グラスが割れる音。

何かが床を這いずる音。


男が苦痛に喘ぎ、命の火を消していく音。


そして、そのすべての惨劇の音を上書きするように

彼女のあのざらついた、甘いハミングが重なっていた。


テープの回転が止まり、カチャッ、という無機質な音とともに部屋は静寂に包まれた。


謎はすべて解けた。


最後に、重く冷たい鉛のような塊が、静かに腑に落ちた。


なぜ彼女は、私の遅いテンポのピアノを好んだのか。


なぜ彼女は、決してエスプレッソのブラウンシュガーをかき混ぜなかったのか。


漆黒の液体の中で、甘い結晶がゆっくりと崩れ、完全に溶け切るまでの時間。


それは、彼女がかつて一人の男の命が溶けて消えるのを測った「砂時計」だったのだ。


彼女は毎夜、私のピアノをBGMに

あの夜の殺人を

あの甘美な復讐の時間を

私の隣でただ反芻していた。


私への執着も、ベッドでの熱も、愛などではなかった。


私はただ、彼女が過去の亡霊と踊るための

都合の良い伴奏者に過ぎなかった。


彼女は、私の奏でるノイズの奥に

永遠にあの日の記憶を隠し続けていたのだ。


私はゆっくりと立ち上がり、キッチンへ向かった。


火をつけ、湯を沸かし、一人分のエスプレッソを淹れる。


立ち上る湯気は、あの夜と同じ匂いがした。


私は小皿から、ブラウンシュガーの結晶を三つ取り出し黒い液体の表面に落とす。

銀色のスプーンには触れない。


ただ、漆黒の泥のような底へ沈んだ結晶が

ゆっくりと、ゆっくりと形を崩し

見えなくなっていくのを

私はいつまでも見つめていた。


部屋の中には、ひどく甘くて

吐き気がするほど苦い

夜の匂いが充満していた。



ロンドンを覆った煤煙のように

焦げたカラメルの匂いは

今もあなたの指先に纏わりついていないだろうか。


遠くで鳴るピアノの不協和音。

漆黒のエスプレッソ。


――今夜、あなたが口にするその甘さは


果たして無害な味がするだろうか。

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