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Brown Sugar  作者: 水色蛍
3/3

僕は砂糖でできている

大人の狂気というものは、決して金切り声を上げたり、刃物を振り回したりするような、わかりやすい姿をしていない。


それは往々にして、吐き気がするほど甘い「愛情」というヴェールを被って、静かに、そしてゆっくりと日常へ侵食してくる。


現代の、無機質なオートロックの扉の向こう側。

温度を失ったLEDライトの真下で、その狂気は誰にも知られることなく静かに煮詰められているのだ。



僕の名前は「まこと」だ。


少なくとも、クローゼットの奥深くに隠された、泥だらけのランドセルの裏にはそう書かれている。


けれど、この白壁に囲まれた無菌室のようなタワーマンションの一室で、僕は「そら」と呼ばれて生きている。


「空、あたたかいココアを淹れたわよ。今日は特別に、ブラウンシュガーをたっぷり入れておいたからね」


アイランドキッチンから、優しく透き通るような声が響く。


僕の「お母さん」は、とても美しい人だ。


流行りの淡い色のニットを着て、休日はオーガニックのスーパーで買い物をし、最新のスマートフォンでレシピを検索しながら、いつも僕のために完璧な手料理を作ってくれる。


------


彼女の与える愛情は、すべてが過剰に甘い。


特に、彼女が夜の八時に必ず持ってくるマグカップの底には、精製されていない褐色の結晶——ブラウンシュガーが、泥のようにドロドロと沈殿している。


『苦い記憶は、甘いお砂糖でコーティングしてしまえばいいの。そうすれば、世界はいつだって優しい場所になるわ』


それが彼女の口癖だった。


僕はその甘い液体を飲むたびに、頭の奥に霧がかかったようにぼんやりとし、本当の自分の名前や、以前住んでいた古びたアパートのカビの匂い、そして……泣き叫びながら僕を探しているはずの「本当の母親」の顔が、輪郭を失って溶けていくのを感じていた。


彼女にとってブラウンシュガーは、一つの比喩だ。


大人が子供を支配するために用意した、甘く、しかしひどく暴力的な嘘そのものだ。

ざらついていて、不自然で、飲み込んだ後も喉の奥に奇妙なえぐみがへばりつく、強烈な自己欺瞞の味。


それを彼女は、僕の口に毎晩流し込む。


僕は十一歳だ。


子供は大人が思っているほど馬鹿ではない。


僕は自分が誘拐されたこと、そしてこの女が、かつて失った自分の子供の身代わりに僕を「飼って」いることに、とうの昔に気づいていた。


警察や児童相談所がなぜこの密室にたどり着けないのか、僕にはわからない。


彼女は外資系の企業で高い地位に就いており、社会的には極めて有能で、隙のない人間だった。


偽造された戸籍、完璧なアリバイ。


僕たちは、休日には人目の多いショッピングモールや映画館にも出かける。


「ほら、空。あのケーキ、美味しそうね」


彼女は僕の手を引き、誰の目から見ても「仲睦まじい現代の母子」を演じ切る。

僕はその時、大声を上げて助けを求めることもできたはずだ。


でも、僕は叫ばなかった。


なぜなら、彼女の作ってくれる温かい食事と、清潔なベッド、そしてあの恐ろしいほど甘いブラウンシュガーの麻痺感が、元の貧しく、酔った父親の暴力に満ちていた本当の家よりも、ずっと心地よかったからだ。


僕は自ら望んで、彼女の甘い罠の底に沈むことを選んだのだ。


だが、あの雨の夜から、僕の中で何かが狂い始めた。


僕は夜中にふと目を覚まし、喉の渇きを覚えてリビングへと向かった。


間接照明だけが点いた薄暗い部屋の隅で、彼女は床に座り込み、スマートフォンをじっと見つめていた。


画面の青白い光が、彼女の能面のような横顔を不気味に照らし出している。


僕は足音を忍ばせ、ソファの陰から彼女の肩越しに画面を覗き込んだ。


それは、とあるニュースサイトの記事だった。


『県内連続児童行方不明事件・新たに一人失踪か』


記事には、僕の顔写真……ではない、見知らぬ別の少年の顔写真が載っていた。


年齢は十歳くらいだろうか。


そして、そのブラウザのタブには、いくつもの「別の子供たち」の行方不明記事が開かれていた。


僕は息を呑んだ。


彼女が誘拐したのは、僕だけではない?


では、僕の前にこの部屋にいたはずの「空」たちは、いったいどこへ消えたのだろうか。


この完璧に整理整頓されたマンションの、決して開けてはいけないと言われているあのウォークインクローゼットの奥の重い扉。


そこから時折漂ってくる、高級な芳香剤でも隠しきれない、土と薬品の混ざったような奇妙な臭い。


彼女はふと、スマートフォンを置き、傍らにあったガラスの瓶を手にとった。


中には、あの褐色の結晶がぎっしりと詰まっている。


彼女はそれを一掴みすると、何かに取り憑かれたように、ボリボリと音を立ててそのまま咀嚼し始めた。


甘さを摂取しているのではない。


まるで、自らの内に湧き上がる恐ろしい「罪悪感」や「過去の亡霊」の苦味を、無理やり押さえ込もうとしているかのような、狂気に満ちた姿だった。


翌日の夕方、彼女は大きな黒いスーツケースを引いて帰ってきた。


「空、お友達を連れてきたわよ」


スーツケースのジッパーが開けられると、中から、睡眠薬で眠らされたような、見知らぬ小さな男の子が転がり出てきた。


昨日、スマートフォンの画面で見たあの少年だった。


「ほら、ご挨拶して。今日からこの子は『うみ』よ。あなたの弟」


彼女は焦点の合っていない瞳で満面の笑みを浮かべ、キッチンへと向かった。お湯を沸かす音が聞こえる。


マグカップが二つ、戸棚から下ろされる音。


男の子は目を覚まし、ガタガタと震えながら、僕を見上げた。


「ここは、どこ……? ぼく、かえりたい……お母さん……」


僕は、彼の前に静かにしゃがみ込んだ。


そして、戸棚からこっそり持ち出していたブラウンシュガーの欠片を一つ、彼の小さな掌に無理やり握らせた。


「泣かないで。大丈夫だから」


僕は、自分でも驚くほど優しい、あの女とそっくりな声で囁いた。


「甘いものを飲めば、全部忘れられるよ。ここは天国なんだから」


キッチンからは、黒い泥のような砂糖が湯に溶ける、あの吐き気がするほど甘ったるい匂いが漂ってきている。


僕は知っている。


この部屋で「空」や「海」という名前を与えられた子供たちが、やがてその甘さに耐えきれなくなり、泣き叫んだとき……あのウォークインクローゼットの奥で、どんな「処理」をされるのかを。


そして、僕自身もまた、いつか彼女にとっての「完璧な人形」を演じきれなくなった時、同じ結末から逃れられないのだということを。


逃げる気はなかった。


僕はもう、この偽物の甘さなしでは生きられない体になってしまっていた。


窓の外では、東京の街の排気ガスとネオンを洗い流すように、冷たい雨が降っている。


しかし、どれだけ雨が降っても、僕の口の中にへばりついたこの暴力的な甘さが消えることは、永遠にないだろう。



ねえ、本当のお母さん。


僕の血肉は今、あの醜くざらついた砂糖の塊でできているよ。


「さあ、二人とも。あたたかいココアができたわよ」


振り返ると、女がマグカップを二つ持ち、慈愛に満ちた微笑みを浮かべて立っていた。


そのカップの底で、ドロドロに溶け崩れていく黒い結晶の姿を、僕はただ静かに見つめていた。

 本作『Brown Sugar』は、三篇より成る短編集として、甘美という名の仮面の裏に潜む暴力性と、その暴力を受容してしまう人間の不可解な性質を主題として編まれたものである。


 今作の主題は、人間が苦しみには過敏でありながら、甘さに対しては驚くほど無防備であるという一点にある。


 それは砂糖という単なる物質の話ではない。


 愛情、記憶、母性、情欲、救済といった、人間が「善」と呼びたがる情念の多くが、実のところこの甘さの系譜に属しているのではないか——私はそう疑っている。


 第一篇「Brown Sugar」では、音楽と殺意、そして記憶が、ひとつの旋律の中で融解していく様を描いた。

 ここでは、過去の罪が現在を侵食するのではなく、むしろ現在の甘美な反復が過去の罪を保存する装置として機能している。


 第二篇「唇に宿る毒」では、愛という形式がいかにして殺意と不可分となり得るかを扱った。

 密室の論理は探偵小説の枠組みを借りているが、実際に焦点が当てられているのは「真相」ではなく、「真相に触れたときなお離れられない欲望」のほうである。


 そして第三篇「僕は砂糖でできている」において、甘さはついに倫理の領域を侵食し、救済と支配の境界そのものを曖昧にする。

 ここにおいて人間は被害者であると同時に加害者であり、同時にまた、そのどちらにもなりきれぬ存在として描かれる。


 三篇に通底するものがあるとすれば、それは「選択の自由」の仮象である。

 人は甘さを選んでいるようでいて、実際にはそれに選ばれているのではないか。その逆説こそが、本作全体を貫く沈黙の問いである。


 この作品を書きながら、何度も自問した。

 果たして甘さは救済たり得るのか、それともただ、ゆるやかな崩壊の別名に過ぎないのか。


 しかし結局のところ、答えは読者の舌の上に委ねられている。


 甘さとは、言葉ではなく、経験としてしか理解され得ないものだからである。


 もし本作を読み終えた後、あなたの口中にわずかな苦味が残っているとすれば、それこそが本書のささやかな成功であると私は信じている。

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