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009:羞恥心は「メタ認知」よりも尊大らしい




 女は「返すのを忘れていたな。ありがとう」と用済みになっていたスマホを僕の方へと回し、そのまま話を続けた。


「ああ、街を守った英雄として北部の地域で語り継がれている逸話があってだな」

「逸話かぁ⋯⋯ その英雄はどんな人だったの?」


 女は僕の質問を聞いてにこやかに微笑んだ。顎に手を当て少し思い出すような仕草をしてから、彼女はおもむろに口を開く。


「その英雄は幼い頃、とても体が弱く、魔法の扱いも不得手で、戦士としての成績も芳しく無かったという。だが、彼は決して自らの可能性を諦めず、日夜構わず絶え間ない努力を続けていのだ」


 彼女の話の休符を埋めるように「うんうん」と相槌を打ちながら、僕は先程から調子の優れないドライヤーの検診を始めた。


「あるとき、街を人間の軍が包囲した。騎士たちは数で勝る人間の軍に圧倒され、街は絶望的な状況に瀕した。誰しもが死を予見したそのとき、修行から帰還した若き英雄が現れ、幼いころとは見違える剣技で人間を圧倒したのだ。結果的に人間は退散し、彼は英雄となった」

「努力の英雄の話なんだね。現実的かって言われると⋯⋯ まぁ逸話だなって感じがするけど」


 僕は簡単な返事をしながら、ドライヤーのプラグを何度か抜き差しした。「確かに童話的な話だし、教訓じみてもいるが⋯⋯」と女は乾いた笑いを浮かべる。


「祖母と英雄が私にくれた『どれだけ劣っていようと、努力を続ければ立派になれる』というメッセージは、幼き日の私にとって大きな救いそのものだったんだ。魔王軍の元で戦う今でも、心強い精神的支柱になっている」

「それで君は『努力』を信じ込んでいるんだ。ここに来る途中でも『鍛錬が~』みたいなこと言ってたもんね」


 冷めた返事をしてしまっただろうか。

 そんな僕の不安を眼光で貫くように、左右が逆転した女の顔には、穏やかさのベールの中で光る覚悟が見える。


 女の表情に意識を縫われていた僕は、指に伝わる生乾きの髪から病床に臥すドライヤーの存在を思い出し、すぐさま再検査を開始した。


 もう古くなってきているし、寿命なのだろうか。焦げ臭さはそこまで感じないから、あからさまに重大な危険を抱えているとは思えない。

 電源の入れどもドライヤーはノイズ混じりの唸り声を一瞬上げるだけで、病態は微塵も回復の兆候を見せなかった。


「見知らぬ地にいようとも、私が私であることには違いない。鍛錬の真髄は『日々の積み重ね』であるからな。ユクフに帰還するまでに、少しでも鍛錬を――」


「わぁあぁぁ!」


 モーターの回転音がごうごうと響く。


 女の凛々しい言葉にガヤを入れるような勢いで、ドライヤーの怒りの最大出力と、僕の情けない叫び声が飛び出た。


 ドライヤーの側頭部をコンコンと叩いて触診を試みていたところまでは順調だったが、モードがターボのままだったことを完全に失念していた。

 心臓マッサージによって突然蘇生したドライヤーから放たれた魂の咆哮が、僕の顔を一瞬にして包んだのだ。


「――ふふっ。ふふふふふふふふ」


 堪えに徹する表情筋を突き破って零れた女の笑い声が、洗面台のあちこちに反響する。


 ドライヤーの叫びの熱が顔に伝わったようで、僕の顔はみるみる内に酷く赤くなった。

「射出口を顔に向けたまま道具の手入れをしてしまうなど⋯⋯ ははっ、すまぬ。堪えきれん。ソウもドジなのだな」


 過剰なまでの笑いを含んだ女の声は軽く上ずって、ところどころクリッピングしている。目元には微かに涙が浮かび、大きく開く口を左手は全く隠せていない。


「こ、これは、その⋯⋯ ドジっていうか、ドライヤーの調子が悪かったのが原因だし⋯⋯ 人の髪乾かすのだって、は、初めてだったから⋯⋯」

「すまん、ソウを罵ったり責めたりするような意図はない。たっ、ただちょっと嬉しいような気がして。ふふっ」


 女は掌を前に突き出して、笑いに悪意がないことを示している。


「や、やっぱり馬鹿にしてんじゃん!」

「優秀な一族の元に生まれ、絵画の才能を持ち、一見要領がよさそうなソウでも、私みたいに間抜けな一面があるのだな⋯⋯」

「結局それって馬鹿にしてるってことじゃん! これはたまたまだから⋯⋯」


 原告側はおろか傍聴席にも坐る気がない女は、僕の弁明をよそに毛先を触り、「これくらいなら床に就くまでに乾くであろう。『どらいやー』の調子も悪いようだし」と強引にその場を打ち切る提案をした。


「わ、わかった。あとで寝室も案内するから、リビングで寛いでて」


 全身の熱が段々と退いていき、薄っすらかいた汗が冷たく感じる。脳みそは「平静である」と主張を続けているが、目が泳いでいるのは俯瞰的にでも明らかに認識できる。


 女は改めて僕に礼をして、左右を確認しながら廊下の方へと向かっていった。

 僕は一度深呼吸をして、肺から恥を孕んだ空気を抜く。


 どの部屋で泊まってもらおうか。僕の一存で彼女に敷居を跨がせたわけだ。正体の知れない女には、とりあえず僕の部屋で寝てもらおうか。

 来客用の布団が家にもあったはずだが、暫く使用しない間にどのような状態になっているかわからないし、第一出し入れが面倒だ。どの道僕の部屋に泊まらせるのが最善策になるだろう。



 彼女に寝室を提供し、数億年ぶりにも感じられる一人の時間を奪取した僕は、まず溜まっていた洗い物に着手した。


「僕は兄貴の部屋に寝ればいいか⋯⋯ なんか面倒なことになったな」


 平皿に固まったお好みソースの残骸をスポンジで叩き落すと、溜まっていた疲れがどっと肩に降り注いできた。


 彼女は幻覚の類ではないのだろう。移動もソースもササキさんへの宣戦布告も幻覚と言ってしまえばそれまでだが、幻覚にしては精巧だし物質的な証拠も信用にたる数だけ嫌な形で残った。


 だとして彼女は何者なのだろうか。ここまでしてイタズラはありえない。彼女のまっすぐな目から考えると、何らかの記憶障害か認識障害で本当に自らが『魔族の騎士』だと認識していると推測するのが普通だろう。


 彼女が持っていた精巧な鎧と剣は未だにミステリーだ。山で散歩をしていて、突然記憶障害に陥ったとすればあまりにも不自然な服装だと思う。「普段から彼女はあの服装を好み、何らかの不注意で彼女の支援者から離れてしまった」と考える方が多少道理が通っていると思う。


 それだとしても、彼女が『本物の剣』とされるものを現代日本で携帯していることはおかしい。

 彼女に支援者がいたとして、山に登った理由を覚えていないことや、支援者に当たる人物が彼女のエピソードトークから真っ先に飛び出さないのも変だ。魔王、祖母⋯⋯ どちらも一般的にイメージされる支援者像ではない。


「そもそもスマホとか知らないもんかなぁ。言語のやり取りも変だし、強い世界観を持つ彼女が、初対面の人物の言葉を信じた上で、すんなりここが『日本』だって認めるのもなのかなぁ⋯⋯」


 妙に作り込まれた彼女の世界観は、反芻するたびに不快感を増すような特異な気質を持っていた。彼女の描いた文字の起こす現象は、いつ思い出しても気味が悪い。


 真実が何であれ、明日彼女を交番に押し付けてしまえば、僕にとっては関係のなくなる話だ。煩わしいこと考えても、思考する分だけ時間の無駄だろう。


「剣も警察に届ければ大丈夫だよな? こっちまで罪に問われるとかなければいいけど⋯⋯」


 彼女に差し出したフォークを洗い桶から取り出し、スポンジで持ち手を包む。


『ある日突然オカピの群れに襲われ死亡した冴えない社畜サラリーマンの俺。女神から告げられた本当の死亡理由は《転生課の担当が突然退職したことによる、後任への引継ぎミス》だった!? 女神に頼んで異世界の《会議室》に転生させてもらった俺は、ブラックな異世界事情をイノベーションするべくフルコミットする! 《転生した俺は会議室~異世界ブレインストーミング革命譚》コミックス発売中!』


 リビングの一角に坐るテレビには、深夜アニメのコマーシャルが映し出された。


「もうこんな時間か」


 明日のために少しでも多く睡眠を取得しておきたいと思った僕は、水に触れる手のスピードを一段階上げた。


「――『異世界』ね」


 もし小学生が同じ状況で考えるなら、こんなファンタジーな解答が一番手にあがるのだろう。

 今の現状を改めて顧みると、他の『可能性』が悉く不安要素を孕み、それが繰り上げ式に『ありえる』側のカテゴリーに食い込んでくるようにも思えるような⋯⋯ そんな狂乱を放って置けてしまうくらい、この状況は異質なのだと再認識する。


 ぼーっと指先を動かしていると、神経の速度限界と脳の注意信号が嚙み合わなくなったのか、スプーンの上には大きな水の花が咲いた。


 花びらから現れた刀が腹を裂いたのだろうか。シャツに透明な血が滲んでいる。


「やっぱ、不器用―― だよな」




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