008:自尊心は「承認欲求」よりも臆病らしい
「ソウは優秀な絵描きなのだな⋯⋯ 草葉を撫でる風の匂いや、花の蜜に誘われた虫たちの奏でる羽音まで迫ってくるような、そんな絵だったと記憶している」
無意識に唇が震えるのを抑えながら、僕は「ありがとう」と端的を装った返事をした。
首筋にジワジワと熱が集まっていくのが分かる。ドライヤーの温風が影響したのか額には軽く汗が現れた。
「『大して上手くない』だなんて、ソウは随分謙虚なのだな。隠せども、鑑賞者にはその鍛錬の歴史がきちんと流れ込んでくる。絵には幼いころから親しんでいるのか?」
耳と脳神経の間にいくらフィルターを挟んでも、頬は自然と緩んでしまうし、唇もぎこちなく揺れてしまう。
「そんな、だけどね」という言葉が、狭く貧相なカップから吹きこぼれ、その液体の中に『僕の真意』を確定させるだけの化学成分が入っていないことを願う僕は、犯罪者のような真理状態のままでいる。
「中学生のとき⋯⋯ だから十三か二の時かな? ちゃんと絵を描きはじめたのは、そのくらいだった思う。図工とかで絵を描くことはあったけど、ちゃんと描いてたわけじゃなかったから⋯⋯」
「そうか⋯⋯ ソウは絵の天分を持っているのだな! 尊敬する。勿論弛まぬ努力もあるのだろうが」
その後の会話は、ピントがずれたカメラみたいな状態で続けた。
『彼女が質問するからそれに答える』という大義名分に甘えて、「県知事賞を獲った話」とか、「美術部の友人たちを差し置いて学内コンテストを優勝した話」とか、僕の肺の中で飢えていた化け物が、ブレーキが馬鹿になったみたいになって滑り落ちていった。
絶対的な根拠のない虚構で、栄養素もまるでない蜜を、毒だと判っていながら吸うから、それが麻薬の類であると認識しながらも飲み込んでしまうから、僕はいつまでも馬鹿者なのだろう。
しかし僕はそれら全てに同意した上で蜜を舐めとった。蜜を吸っている間は、誰にも存在を否定されないヒーローになれた気分がしたからだ。
正体不明の不審者から溢れたそれでも、微塵も気にはならなかった。
「ちょっと、側頭部にばかり風が当たって熱いのだが」
彼女のぎこちない笑い声が、僕の意識を現実の方へと引っ張り返す。
話に夢中で完全に手が止まっていたことに気が付いた僕は「ああ、ごめん!」とすぐさま謝罪の言葉を返した。
「そ、そういえば! まだそっちのことって、あんまり訊けてなかったよね」
必要以上に温風を当て続けてしまった頭皮の具合を確認した僕は、少し後ろめたい思いで彼女に話題を振った。
「私のこと?」
彼女から長考の兆しを感じ取った僕は、沈黙が続くだけ理由もなくこちらの盤面が不利になると思案し、「『家族のこと』とか?」と選びやすい一手を指先で弾いた。
「私の家族は⋯⋯ みな温かくて誠実で、義理堅い人だった」
「そう⋯⋯ なんだね」
彼女は神妙な面持ちで答える。
前奏の沈黙にハラハラと勝手な感情を揺らせていたが、彼女がまっすぐな一手をこちらに提示してくれたおかげで、得体の知れない緊張は簡単に冷めていった。
彼女は指先で丁寧に語調を整えながら、慎重に話を続ける。
「私は幼いころから物覚えが悪く、不器用で、人よりずっと非力だった。そんな私にとって、他の子から意地悪をされたり、からかいの標的にされたりすることは、ごくありふれた日常の一部だったのだが⋯⋯」
「非力?」
彼女が回想する風景を言葉を介して辿っていた僕は、ノイズとなって現れたいくつかの違和感に躓いて転んでしまった。
『物覚えが悪い』と『不器用』は今までの雰囲気と少ない実績からなんとなく察することができたが、僕を肩車して風を切った彼女の言う『非力』は、謙遜の地図に収まる島々では無いように思える。
彼女の認識上の『魔族』の体力水準は人間のそれとはずっと異なるのだろうか。
「ソウは身をもって体験済みであろう? 私の剣術では、人を貫けないことを。十七歳にもなって、実物の人間はおろか『試験人形』すらも切れないのは、魔王軍の長い歴史を見ても私を含めて三人くらいなのだそうだ」
「それは力が弱い⋯⋯ とかなのかな⋯⋯ 不器用とは毛色が違う気もするけど」
鏡越しに僕の訝し気な表情を捉えたのか、女は自分が非力であることの証明を次々と開始した。いかんせん、僕には『魔族の平均的な能力』という設定がイマイチ掴めない。
「まあ、一旦話を戻す。そんな出来損ないで落ちこぼれだった私を、家族は決して見放さなかったんだ。私に期待と愛情を寄せ続けてくれた。だから、家族には深く感謝している」
「へぇ。いい人たちなんだね」
女の目元が柔和に緩んだ。彼女の耳裏は微かにピンクがかっている。
「祖母は私によく古い英雄の話をしてくれた」
「英雄?」




