007:傷跡は「ロングヘア」よりも乾きにくいらしい
「にふぉんの道具は不慣れなもので、要領の良くない私にとっては、使いこなせるまでに時間が必要そうだな⋯⋯」
女は申し訳なさそうな口振りで、小さく頭を揺らした。
「大丈夫。火事になるよりは」
僕は彼女の濡れた髪を指先で掬いあげ、試行錯誤を編みながら女の髪にドライヤーを当てていた。
ソースのまとわりついた髪を洗い治させるついでに、ドライヤーの使い方を彼女にレクチャーする算段だったが、彼女がドライヤーを持つや否や、コードから髪からが複雑に絡み合い始め気が気でならなくなったため、僕が代わりにドライヤーの柄を持ったのだ。
「頭皮、ヒリヒリとかしてない? 僕も人にやる機会なんてないから、火傷させない保証はないんだけど」
「ああ、異常はない。気遣いをありがとう」
モーターの音に混じりながらだからか、女の言葉はいつもより小さく聞こえた。
温風に靡いた毛先はするすると指の間を離れ、舞い上がる五線譜のように波打つ。
ドライヤーの呻る声が数十秒のソロパートを奏でる。
ポンポンとタオルに叩かれながら頷く彼女が、何かを思い出したかのように話し始めた。
「廊下に飾られていたのは、にふぉんの勲章か? ソウの親族にも軍人がいるのか?」
女は姿勢はそのままにしたまま首を後ろに回して、シャープな流し目で僕を見つめた。
「あれは⋯⋯ ほとんど兄貴のやつだね。軍とかそういう勲章じゃなくて、陸上とか剣道みたいなスポーツ系と、物理なんちゃらとか自由研究とかの学問系とか」
「――ほう。ソウの兄は、文武どちらにも秀でているのだな」
女の返事のあとに、僕は「そうだね」と付け足すように呟いた。
「今は⋯⋯ 一人で暮らしているのか?」
「一人?」
女はゆっくりと「失礼なことを訊いてしまったか? 食器の数に比べて、並んでいた下足が少ないように見えたゆえ⋯⋯」と何かをリカバリーするように言葉を積み重ねた。
「ああ、そういうこと? 家族は今、ロサンゼルスの兄貴のところに旅行中。だから、父さんも母さんも家を空けてるんだよ。一か月くらいは帰ってこない」
「そうじゃなかったら、君を家に上げる訳がないからね」と僕は微かに呟いた。女は軽く微笑んだような顔を一瞬浮かべ、すぐに首の角度をリセットした。
髪の長い女性は、ドライヤーにいつもこれだけの時間を要しているのだろうか。表面は乾燥しきった風に感じられても、再び頭を掻き分ければ、過剰な潤いを保った髪の塊が内側からフランクな挨拶をする。
「ソウの兄は『ロサンゼルス』に拠点を構えているのだな? ロサンゼルスはどこにあるのだ?」
「ロサンゼルスは日本じゃなくて、アメリカっていう海の向こうの国の都市だね。兄貴はそのロサンゼルスの大学に通ってるんだよ」
「異国⋯⋯ そういえば、エルカトルには数百もの国があると言っていたな」と女は顎に手を当てて呟く。
続けて「すまふぉんでエルカトルの地図を表示できるか?」との願いを受けた僕は、赤い目で疲労困憊なスマホをポケットから呼び出し、「勝手に変な操作はしちゃダメだよ?」と念を押してから手渡した。
「ほう⋯⋯ かなり北の方に位置する国なのだな。詳しくない私が見ても、にふぉんからは果てしなく遠いように推測できる」
女は勝手に画面をスワイプしたりドラッグしたりして、坐ったまま気ままに世界旅行を楽しんでいる。
「北の方? その南の離れてる部分もアメリカだよ。ロスはそっちの西の方」
「そうなのか! これだけ広範囲に領地を拡大させている⋯⋯ そんな大国の教育機関に通っているのだろう? かなりのエリート、知略に長けた人物なのだろうな」
女の指先はパスポートを持たずに、国境を慌ただしく突き抜けていく。その航路は見えない何かを追いかけているかのようで、一見される不規律の中に確固たる意思に似たものが垣間見られた。
「――なぁ、ソウは家族と供にアメリカに行けないのか?」
「行けないって訳じゃないかな。『行かなかった』が正しい。家族の中では僕も一緒にって予定だったらしいけど、夏休みとはいえ画塾とかで忙しいから、断った」
女の質問に対して、僕は端的に回答を差し出した。あまり気が乗らなかったのも足を止めた一つの枷だったが、ここでもその理由は省いて伝えた。
「画塾⋯⋯ 絵を習う施設という認識であっているか? ソウは絵描きなのか?」
女の好奇な眼差しが鏡に反射して僕を捉えた。
「絵描き⋯⋯ 別にお金を稼いでるわけじゃないし、大して上手くもないけど、広い意味ではそうかもね。絵は描くよ」
掌に当たる温風がいくらか冷たく感じる。
ドライヤーを持つ手に疲れを感じていたが、僕はそのスイッチに指先を置かなかった。
「ソウはどんな絵を描くのだ? ぜひ一度見てみたい」
女はスマホを一度太ももの上に置いて、僕の返事を待つようにしながら垂れた髪を弄っている。
少し調子が悪いのか、ドライヤーのファンから何かが痞えたようなノイズが二回鳴り響いた。
「――リビングの壁にかけてある絵、見た?」
「あれか? 花畑が綺麗に描かれていたような⋯⋯ 食事のときに視界に映っていたぞ」
「そう、それ。コピーだから、あれだけどね」と呟いた声は、モーターの叫び声に負けてしまっていたかもしれない。僕は意識的に鏡から目を逸らさずにはいられなかった。
女は何かを考えるような仕草をしたのちに、ゆっくりと口を開く。




