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003:現実は「死後の世界」よりも狂っているらしい




 彼女の掌から剣がするりと零れ落ちる。彼女は溢れる涙を両腕で抑えるようにしながら、継ぎ接ぎなようすで話を続けた。


「また、守れなかった。最後まで、何も守れなかった⋯⋯」


 女は両膝を地面につけ、俯いてしまった。


 精神的な錯覚症状として自らが信じていた常識が覆ったとき、その第二案として『死』という概念がよぎるのはよくあるケースなのだろうか?

 急な感情の起伏に最善のアンサーがまとまらず、僕は言葉を吐きかけては躊躇ってを繰り返した。


「エルカトルではどのような罰を受けるのだ? 火あぶりでも何でも、私は進んで受ける心づもりだ。神よ。早くこの肉体を引き剥がせ。そしてこの黒く腐った魂を永遠に殺し続けるのだ」

「いや、その別に⋯⋯ ここは死後の世界とかじゃないですよ。地獄とか天国とかそういうジャンルのものじゃなくて、ちゃんと現世ですから、罰とかはありません。落ち着いてください」


 僕の言葉に涙を止め、キョトンと困惑する女を前にした僕は、なんだか僕の方が的外れなことを言っているかのような錯覚に陥りかけてしまい「かくいう僕も、生まれてから死んだことはありません。一度もです」というおもちゃみたいな追伸を添えてしまった。


「では、何なのだ? 私は強力な転送魔法を喰らい名も知らぬ土地まで飛ばされたのか? それとも因果の異なる別世界に招かれたのか? どうすればもとの場所に戻れる? 貴様、本当に人間なのか? 転送魔法は心得ているか?」

「ちょ、ちょっと落ち着いてください。僕も突然のことでかなり混乱していますから、順を追って整理しましょう。まずはお互いの故郷について、できるだけ情報を交換しましょうか」



 女には一度地面に腰を下ろしてもらい、僕たちは自らの見ている世界の設定について言葉を交わした。


 彼女曰く、彼女は魔王の支配する国『ユクフ』で騎士をしているらしい。

 ユクフは魔族が人口の大部分を占める国で、人間の国である『フマヌ』とは長期にわたって戦闘を続けているという。

 見た目は人間と比較してもほとんど変わらないようだが、彼女自身も魔族であるらしい。


 戦争には剣や鎧のほかに、スキルや魔法といった異能が用いられる。

 完全に理解することは難しかったが、スキルは個人に備わった特別な加護であり、魔法は生活にも転用されているような体系化されている技術のことだそうだ。


 彼女の言葉の節々から察するに、文明レベルは中世のヨーロッパくらいであろうか。魔法やスキルといった要素で多少の違いはありそうではあるが、衣食住のライフスタイルは人間とさして変わらなさそうである。



 紆余曲折はあったが、僕は女の情報を引き出すことに成功した。



 僕はざっくりと女に『エルカトル?』の常識を話した。魔法やスキル、魔族といった概念は存在しないこと。人間が治める国が二百程度あり、ここは日本という国であること。


 あたりまえのことを綺麗に再構成して話すのは難しく、情報の取りこぼしにも自分では気づきにくかったため、残りのことは彼女から質問をもらってから回答することにした。


 彼女はまず、魔法なしでどのように生活をしたり、戦闘を行ったりするのか想像がつかないと呟いた。僕は「僕も魔法を見たことがないから、魔法がある生活を想像することができない」と答えた。


 次に彼女は、僕が検索につどつど使用していたスマートフォンに興味を示した。

 彼女が「これは手練れの変装魔法ではないか?」と評したのに対して、魔法が体系化された技術であるという前提からすれば、科学などの学問と魔法は本質的にどう違うのかが具体的に分からず、「これは魔法の力ではなく、物理法則の応用? って考えるんだよ」とあまり意味の通らない返答をしてしまった。


 続けて彼女は、「にふぉんでもイェクフェを会話に使うのか?」と質問した。イェクフェはユクフやフマヌが位置する大陸に神が授けたとされる言語で、多様な種族が主言語として会話等に用いているものらしい。

 僕は「僕は日本の言葉である『日本語』を話している自覚がある」と答えたが、彼女も不思議そうな顔を浮かべて、「私はイェクフェを使っている。貴様もイェクフェで話している。そう聞こえる」と言葉を重ねた。



 それから英単語を使って会話をしたり、スケッチブックに互いの文字を書いたりして、言語に対する実験を行った。


 彼女の認識のルールはこうだった。


 彼女は日本語の文書をイェクフェを用いた近い意味の文章として認識している。

 数回再翻訳伝言ゲームを行ったところ、『私はドイツの宇宙物理学者で、猫が好きです』は『私は星の運動などを専門とするドイツの天文学者で、猫が好きです』のように変換され、完全に一致する概念がなかった場合は似た概念(猫≒オウス≒猫)に、一致する語彙がなかった場合には近い意味の言葉に自動翻訳して認識していることが分かった。『スマホ』のような代替概念がなかったり、お互いがそのものの存在を知らないようなものは、そのままに聞こえるらしい。

 『ドイツ』や『ユクフ』のような地名や、『アクスティア』『織田信長』のような人名の固有名詞はそのまま認識しているそうだ。

 英語の『cat』やフランス語の『chat』などの外国語は、シフォンルのようなイェクフェにとっての外国語に変換されることもあるらしい。スマホで無作為に選んだ言語を聞かせたが、「知らない言葉だ」や「南部からきた獣人の魔物が話す言語にイントネーションが似ている」や「そのままイェクフェだ」などの法則性の分かりにくいリアクションで、まだまだこの点の謎は多そうといった結論だ。


 一番奇妙だったのは文字を書くときだった。


 彼女がスケッチブックに記したイェクフェの文字だというものを記したとき、僕は衝撃を受けた。

 文字を書いている最中は取り留めのない無秩序な線であるのに、文章や単語が完成した瞬間、その文字は日本語として見て疑いようもない姿に変化したのだ。



 気が狂ってしまっているのは、僕の方なのだと思った。


 彼女に日本語を書いて見せた際にも同じような反応を見せたため、僕は彼女が「僕にしか見えない幻覚か何かの類」なのだと思った。

 

 彼女が疾患か何らかの影響で僕とは違う認識を持っていて、日本語という概念をイェクフェだと錯覚している場合では、翻訳に軽微であれ意味の変化が見られるのは奇妙な話だ。

 文字を書いた際の現象については、彼女が錯乱しているという過程では説明のつけようがない。


――つまり僕は根本から間違えていたのだ。そう悟った。




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