002:ネットニュースは「不審者」よりもサッカーらしい
風切り音が過ぎ去ってから数秒後。世界は完全な静寂に包まれた。
頭には狂乱の渦が巻いていたが、その中心点は奇妙なくらいに凪いでいる。
一撃で首を切り落とされたのか? 躊躇いをミリ秒ごとに押し潰しながら、僕はゆっくりと瞼を持ち上げた。
⋯⋯切れてない?
確かに首には触れているが、少しも切り込めていない剣。
強いて言えば『気まずそう』にカテゴライズされるであろう、曖昧で微妙な表情を浮かべている女。
――目を開いてから十数秒、これらはぴくりとも動かずに世界の画角を構成した。
「き、貴様! 先の一撃は完璧な太刀筋であったはずだ⋯⋯ さては、運良く加護やスキルの類を発動させたのだな?」
虚勢を張るように叫ぶ女の唇が小刻みに震える。女の語る内容からは、未だに起こっていることの全容が見渡せない。僕は地面についた腰と両手を数歩後退させた。
「『運に頼るものは運に守られ運に泣く』これは魔王様の言葉だ。このアクスティア、二度獲物を狩り損ねるような真似はせぬぞ! 覚悟せよ!」
女が再び剣を振り上げる。
彼女から溢れだす無数の情報に目を覆われて反応が遅れた僕の脳天に、銀色の刃が空を裂いて落ちた。
「切れてない⋯⋯」
髪を選り分けて頭皮に触れても、血液の一滴も確認することはできなかった。それどころか、痛みすらも感じていない。
「今度こそ!」と女は再び剣を振り下ろす。目視で回避することは到底不可能な速度で降り注ぐ刃だが、腕にあたっても同様に痛みがない。
不安になった僕は、手の甲を爪で軽くにじった。――皮膚の感覚はある。
手提げからスマホを取り出し時刻と現在位置を確認したが、特に異常は検知されなかった。ネットニュースもサッカーの試合結果をいつも通りに報じている。
「ちょ、ちょっと、剣で叩くの止めてくれませんか。偽物で危なくないからって、気のいいものでは無いんですけど。見た目は武器ですから」
眼前の女について、現時点での予想の八割は不審者で、対話ができる可能性は限りなく低そうではあった。だが、どこか気が動転していたのか、はたまたこの未知のワンシーンを理解したいという知的な好奇心が働いたのか、僕は話し合いという選択肢をチョイスした。
「偽物とは、何と失礼で間抜けな魔術師なのだ!」
女は背後に一太刀を飛ばし、柵のようにならんだ背高草を撫でるようにしてカットして見せた。
「辞世の句で阿呆を曝すとは、フマヌの兵士にプライドとやらはないのか? まあよい、己の浅はかさを恨むのだな!」
額に刃が触れる。綿を金槌で叩いたような素っ頓狂な音が微かに耳に届いた。
会話で解決できるという目論見は、早くも風前に追い込まれている。草は切れるが人間は切断しない特殊な剣なのだろうか。本気で命を奪うつもりはなく、悪質なイタズラの類なのだろうか。
「フマヌ? 何のことですか? その剣は何なんですか? 草は切れるのに人は切れないって⋯⋯ ドッキリとかなら、もう止めにしてください」
僕の発言に驚愕したように、女の瞳がゆらゆらとフレームレートを落として揺れる。
「き、貴様。知らんぷりとは卑怯な手を使いおって。貴様はフマヌの魔術師であろう? とぼけたところで、その珍妙な鎧と、この場にかかる幻術魔法が貴様の出自を貴様よりも雄弁に語っているではないか。そのような貧相な空言には騙されぬぞ」
剣を持つ腕が振動しているのが分かる。この女は本気で僕を『フマヌの魔術師』であると錯覚しているのだろうか。
彼女はまっすぐな瞳をしていた。からかいや悪ふざけのような悪意的なほころびは、彼女の言葉の輪郭をなぞっても見当たらない。彼女は嘘をついていないように思える。
精神的な何かを患っているのだろうか。外面上は不審者であることに違いはないが、保護を必要としている人物である可能性はある。
小さな裏山といえど、山は山だ。彼女がここで彷徨い続けたまま日が暮れれば、それなりに危険を伴う。
一人で街まで下ってこれたとしても、正体不明の剣を無暗にぶんぶん振り回すような危険人物だ。大きな騒ぎになれば、ネットニュースはサッカーボールではなく謎の騎士を追い回すことになるし、怪我人がでたとすれば、僕は自分を責めずにはいられなくなる。
「僕は少なくとも『フマヌの魔術師?』ではありません。一体どうされたのですか?」
上手くまとまらないまま、ナンセンスな質問が口から漏れた。
錯乱している彼女を無暗に刺激せず、情報を円滑に引き出すパーフェクトな尋問方法なんて、僕は持ち合わせていない。
彼女の状態によっては、交番などのしかるべき施設に連れていく必要があるのだろう。その場合は、交番まで案内するにあたって彼女をある程度落ち着かせておかなければならない。
警察に電話する手もあるが、この場所を上手く説明できる自信はないし、どの道、妨害されずに通報の時間を稼げる程度の余裕は必要になる。よって、彼女を落ち着かせるのは必須の項目ということになるだろう。
「そ、そんな筈はないだろう。演技は止めろ! 時間稼ぎか!」
彼女は再び刃を振り下ろす。僕は左腕でそれを受け止め、サイドに力を逃がした。
まず最初に彼女に敵意がないことを伝えておくべきだろうか。
「一旦落ち着いてください。僕はあなたと初対面です。もちろん敵軍などではないですし、危害を加える理由の一つも持ち合わせてはいません」
「なっ?!」
女は剣がいなされたことに悔し気な表情を浮かべ、何やらぶつぶつと呟きながら、地面に剣先を何度も突き刺したり、刃先を確認したりしていた。
「どこからここに来たか覚えはありますか? お名前を教えてもらうことってできますか?」
「名はアクスティアだが。 ⋯⋯どこからって、ここは魔族国ユクフの衛星都市エスタゴルの外れであろう? 何を言っているんだ?」
彼女の鼻筋に怯えの色が照りつく。僕は絶えず頭を回し、負荷を与えずに質問する方法を考えた。
「そ、そうですよね。ここはエルカトルです。この山にはどうやって登られました?」
「エルカトル? エスタゴルではない異郷の地なのか? すまない。わからない、わからないんだ。これは幻術魔法だろう? 輸送車から防衛隊を引き剥がすために、我々に奇襲をしかけ、作戦中の攪乱のために幻術魔法をかけた。そうではないのか?」
敵意は混乱に姿を変えたようだ。
一度聞いただけのカタカナ語を完璧に記憶するのは難しい。少し急ぎすぎたミスのように思えたが、ひとまず彼女が『対話の姿勢』を作ってくれたという点では一歩進んだと捉えるべきだろう。
「いいえ、違います。もう一度話しますが、僕はあなたの敵軍ではないし、ここはあなたの思う場所でも幻影魔法でもありません」
女の目がほんのりと赤みを帯び、うっすらと涙のようなものが確認できた。今までになく怯えているような雰囲気だ。
ここがエスタゴルだと本気で信じ込んでいる彼女にとって、異郷の地であるという『真実?』に似たものを突きつけられるインパクトがどれほど大きいか。立場を変えてシミュレーションしていれば防げた過ちだ。
「――やはり私は、死んだのだな」
「死んだ?」




