014:従うべきは「理屈」よりも想いらしい
オノさんと連絡先を交換した翌日、僕は再び病院を訪れた。
反射的に湧き上がった感情に任せて、中途半端な啖呵を切ってしまったのが良くなかったのだろう。
肺の中でのらりくらりと揺れながら渦巻いていた得体の知れない煙が、過去の言葉を核として結晶構造をとり、彼女のことを思案するたびに、はぐらかしようのない客観的なものとして僕の心臓を刺していた。
待合室の一隅には、妙な緊張感と疎外感が蔓延っており、常に何者かに監視されているみたいに感じて落ち着かない。僕はデジタル時計の秒針を見つめるフリをして、意味もなく時間とむず痒い感情の湿疹を潰していた。
震える指の腹には、うっすらと黒鉛が残っている。手に付着した鉛筆の汚れは、デッサンを終えてから暫くしても、しつこくその場に留まり続けていることが多い。
彼女との粗筋も、オノさんへの疑念も、人生という時間軸で比較すればほんの些細な接点の一つにすぎないのだろう。だがその一瞬の触れ合いで吸い込んだ鱗粉が、水で洗いしても落としきれない黒鉛のようになって、ふと息を吐くたびに空気中を舞っては、日常を執拗なまでに惹き止めるのだ。
「――お待ちしておりましたよ」
糸球になった情緒を転がしながら待機していると、ナースカウンターの奥からオノさんが姿を見せた。
「こんにちは⋯⋯」
昨日の一件の影響から、オノさんの脳内で僕がどんなャラクターとしてラベル付けされたのか不安になり、アンケートの「どちらでもない」を選ぶような気概で、僕は無難に挨拶という選択肢を塗りつぶした。
「今日も面会禁止です――」
嘘を吐くときでさえ明快な物言いを選んできたオノさんにとっては珍しく、語尾から含みのある切断面が見て取れる。
「ですが、アクスティアに会わせることができます。勿論、あなたが望むならですが」
オノさんは深く息を吸ってから、簡潔にそう言い切った。少しの機微も見逃すまいとした勢いで、オノさんの瞳が僕の全容を捉えるのが判る。
「それって⋯⋯ でも、面会禁止なんですよね? どういうことですか?」
僕の問いかけに対して間を置かず、オノさんは話を続けた。
「『身元に関する新たな情報が発見される見込みもなく、早急な対応が求められるような事件性は確認されない』として、警察の捜査は打ち切りになりました。アクスティアも、これ以上の協力を警察に求めなかったようです。重要な検査はすでに終わっていますし、今日はカウンセリングや治療の予定もありません」
オノさんは顎に手を当てながら、順序よく彼女の置かれている状況を説明する。「彼女はこれ以上の協力を求めなかった」という箇所が気になったが、疑問はひとまず舌根に収めて、僕はオノさんの言葉に耳を傾けた。
「――つまりです。病院関係者も警察関係者も、今日は彼女の病室を訪れる用事がない。私たちを阻むものはないのですよ」
「面会禁止ということにはなっているけど、隙を見て無断で病室に侵入するってことですか? それって結構マズいんじゃ⋯⋯」
オノさんは戸惑う僕に対して、小さくため息を吐いた。
「良い悪いで語るのなら、こうやって機密情報を共有している時点でアウトです。何を今更恐れているのですか。元々はと言えば、あなたもアクスティアの病室を探し当てて忍び込もうとしていたのでしょう? その時点で、れっきとした不法侵入ですよ」
「確かにそうですけど⋯⋯」
オノさんの反論で、ここ数日の悪い酔いが覚めそうになる。オノさんの言う通り、僕がここまで行ってきたことは紛れもなく『アウト』だ。彼女が引き起こす非日常が、僕の倫理的な基準をまやかし続けているのかもしれない。
「捜査や治療への疲弊からなのか、日を跨ぐごとにアクスティアは口数を減らし続けています。心を閉ざしてしまった彼女にとって、最も信頼にたる人物はあなたである。私はそう推理していますが⋯⋯」
オノさんは諭すような口調で話を続ける。
「あなたにとっての彼女より、『アクスティアにとってのあなた』は何者なのか。あなたには、それを思いやれる理由があるのではないですか?」
肺の中の塊が、オノさんの言葉に呼応して揺さぶられるのが判った。
冷静に考えれば、僕は大馬鹿者だろう。不審者を家に泊めてしまった時点で、もう毒されていたのかもしれない。
未知の現象への好奇心? オノさんに対しての懐疑心? 第一発見者としての野次馬根性の類? 彼女を憐れむ無責任な英雄的慈愛? 僕を突き動かす焦燥感の正体は、そのどれでもあるが、それらすべてを組み合わせたとしても、語り尽くせるものではないようにも感じる。
オノさんが昨日言っていたように、行動の動機なんて誰しも複合的だ。簡単に一意に定まるものではないし、つまびらかに述懐できるほど画然として截然たるものでもない。だけど――
「わかりました。――会わせてください。彼女に」
無責任なまま、だけども明確な意思を含んで僕の口から言葉が漏れた。
正直、何も判らないままだ。心臓を叩く針の正体も、今まさに巻き起こっているミステリーの正体も。誰も答えを教えてくれないのは、どちらも同じ。
――だけど、僕の中に『思い』があることだけは明確だった。
周りが暗闇に包まれているのなら、どこを指しているのか不明で、どういった原理に従っているのか判らないコンパスでも、それを信じる他に道はない。善悪の選り分けもできない赤子同然の考えなのは、痛いほど判っている。
「そうですか。それでは、彼女の病室番号をお教えします」
オノさんはポケットからメモ帳を取り出して、ゆっくりとペンを走らせ始めた。
「『C-302』ここでアクスティアは休んでいます。Cブロックからは精神病棟に割り振られていますので、基本的には面会が『禁止』となっている病室が多いです。第二病棟の途中までは堂々と、Cブロックに入ってからは迷ったふりをして足早に。そうすれば、面倒なことになるリスクは最小限に抑えられるでしょう」
幼児向けのパズルピースみたいな地図が載せられたメモ帳を差し出しながら、オノさんは淡々と潜入作戦の概要を話していく。
「オノさんはどうするんですか?」
「私は時間をずらして、病室の付近まであなたを追いかけます。『私が案内した』という建付けにするのは、些か合理的とは言い難いでしょうから。あなたとアクスティアが話している間は、患者さんのところを回っているしているフリをしながら、注意深く周りを見張っておきます」
「なんだか修学旅行の夜みたいですね⋯⋯」
僕の冗談にも全く顔を緩めず、オノさんは僕の拳にメモを握らせた。
「誰かが病室に来たりとか、緊急事態が起きたら、オノさんが合図を出したりとかして知らせてくれるんですか?」
「そうですね。咄嗟に合図するのは不審ですし、難しいでしょうから⋯⋯ 扉の向こうから私と誰かの雑談が聞こえ始めたら、そこまで人間が迫っていると思ってください。意外だとは思いますが、こう見えて私は世間話が得意でないので、対象を食い止められる時間は短いですよ」
どこが面白かったのか、オノさんはニヤリとイタズラっぽく微笑んだ。
「それって、警笛を聞いたころには扉はもう塞がれているってことですよね? 僕はどこに逃げれば⋯⋯」
表情と言葉の因果関係が判らず、愛想笑いを作るのが遅れた僕は、とっさに質問を投げかけた。
「アクスティアに言って、ベッドにでも隠してもらいなさい」
オノさんは至って真面目な表情で、間髪入れずに即答した。




