015:怖いのは「真っ黒」よりも真っ白らしい
白く塗られたアルミの扉を引くと、そこには見覚えのある病室が広がっていた。
検査のときはAブロックの病室に案内されたと記憶していたが、どこの病室もこんな建付けなのだろうか。
スパイさながらの潜入作戦の影響で神経質になっていた僕は、オノさんのメモに記された部屋番号と、横のアクリル板に刻まれた病室名を再度確認してから、忍者のような所作でその敷居を跨いだ。
薄暗い部屋に、白いベッドが一つ。夏バテという概念を知らないのか、ベッドにセットされた毛布はかなり厚手の生地で、それにくるまれた人影はかなり肥え太ったように見えた。
「あ、あの⋯⋯」
しばらく待っても、僕の呼びかけに答える声はなかった。一室を満たす沈黙に、過剰なまでの清潔な香りが混ざる。
「――アクスティア? ソウ、だけど⋯⋯」
一歩、二歩。反応を示さない彼女のもとへ歩みを進めるたびに、リノリウム床のしっとりとした摩擦音が鳴り響いた。
――『眠っている』のだろうか。
「彼女は検査や捜査への心労がかさんで元気がない」と、オノさんからは常々聞いている。今は一人でいたい気分なのかもしれないし、落ち着かない病室で睡眠のサイクルが安定しておらず、束の間の休眠をとっているのかもしれない。どちらにせよ、ひとまず彼女の状態を試験的にでも把握しておくことはマストだ。
ベッドと窓の隙間に周り込み、横たわる彼女の前に移動する。もう一度、「アクスティア?」と優しく呼びかけたが、呼吸に合わせて静かに毛布が波打つのみで、明確な意思を伴なう反応は見られなかった。
潜入作戦は不完全だ。ここに滞在できる時間もそう長くはないだろう。躊躇いに気を許せば、自ら嵐を引き寄せることになる。
「アクスティア、ごめんね―― 毛布、捲るよ?」
繭のように彼女を守る毛布に、僕はそっと右手を置いた。隅を掴んで数秒間待ち、内側から拒否反応の兆候がないか確認する。
――大丈夫そう、なのかな? 「心配している」を押し出すのが最適か、笑顔を作って安心感を与えるのが優先か、僕は脳内で最良のリファレンスを探しながら、一度深呼吸をした。
「そ、それじゃあ⋯⋯」
唾を飲み込んでから、右手でゆっくりと毛布の端を浮かせる。仄かな衣擦れ音に包まれながら、彼女の頭部が徐々に露になっていくのが判った。純白のシーツに流れる黒髪が、艶やかで劇的なコントラストを帯びている。
「ソウ⋯⋯?」
影から現れた彼女の瞳が、じっと僕を捉える。微かに身をよじった彼女は、小さく息を漏らしながら、ひどく掠れた声を上げた。
「あ、会いに来たよ。アクスティア⋯⋯」
鋭くてシャープな目尻は弱弱しく歪み、大きな瞳は何かに怯えるように絶え間なく揺れている。細やかに震える唇は、発芽しなかった言葉の種を弾きながら、縁の部分が鈍い赤紫に染まっていた。
――彼女を気遣う仕草とは、一体どんな形をしているのだろうか。視界に映るシーツの白が、脳内を侵食していくのが判る。
最適解を探した表情も、道中で考えたベストな受け答えも、数日ぶりに向き合った彼女の顔を前にして、頼りなく吹き飛んでしまった。
「――他に誰か、いるのか?」
痞えていた飴玉が零れたように、彼女は息を忘れながら口にした。
「面会禁止のところを内緒で忍び込んでるから、病室には僕しか入ってないよ」
彼女は寝たまま上体を少し反らして、周りをキョロキョロと警戒するような仕草を見せた。
捜査や治療を恐れているのだろうか? その場合、ここでそれら関連の話題を振るのは最悪の選択肢になり得る。
過度な緊張状態にある彼女に対して、『僕ができること』とは結局何なのだろうか。彩度の低下した表情を見つめながら思案していると、彼女は何かを避けるように瞳を枠に這わせて、そのまま目を逸らしてしまった。
オノさんは「心を閉ざしてしまった彼女にとって、最も信頼にたる人物はあなたである」と考察を述べていたが、今の彼女にとって、僕は「なんら特別な効能を持ち得る存在ではない」といったところが現実的な標識だろう。僕はただの第一発見者。彼女の側にすり替わって想像すれば、至極当然のことのように思える。
部屋の向きの都合で夕方は日当たりが芳しくないのか、レースカーテンが引かれた窓から漏れる陽光は、冷たい病院では頼りないほどに微かだ。
仄暗い夕刻の背景を背負いながら、僕は彼女との映像を遡って、少しでも安心感を与えるヒントがないか一人悩み続けていた。
彼女は今、現状にひどく混乱しているはずだ。混乱しているとき、安心したいとき⋯⋯ 彼女はどうしていただろうか。
――判った。セミが流行歌を三度歌い終えるくらいの思考を経て、分厚い曇りガラスを一縷の閃きが砕き割る音が鳴った。
「アクスティア! 手、借りるよ」
閃きの生み出した揚力に流されるまま、僕は両手をベッドの方へと伸ばし、彼女の左手を包むようにしてこちら側に引っ張った。シーツの上を入院着の袖が滑走し、驚いたように息を漏らす彼女の腕が、毛布の下からするりと露出する。
希望的観測を目蓋の上に縫いつけ、目を瞑りながら、両手にそっと熱を込める。揺れる手のひらをぎゅっと握り締めると、柔らかな肌に包まれた分厚い筋肉が、呼吸に合わせて素早く脈動するのが判った。
胸に手を当てるのは気が引けたため、手のひらを握るところまでしかできなかったが、僕の脈拍を彼女に伝えることができれば、構造上は成功の要件を満たしているはずだ。
裏山で全てが幻覚だと誤解した僕を落ち着かせるために、彼女は手のひらを握り、胸の拍動を聞かせるという行動をとっていたことを思い出した。
彼女がどんな病気に罹患していようが、記憶が混乱していようが、オカルトな魔法を喰らっていようが、これは彼女が『僕と出会ってから』した仕草であるから、彼女の中に「拍動=落ち着く」という認識が存在するのは確かだろう。
「ど、どうかな⋯⋯ 安心、した?」
唇には恥を担保した保険を、睫毛には確信めいた希望をのせ、静かに目蓋を開く。
ぼんやり眩しい光に包まれた彼女は、慌ただしく目線をスイングさせながら、気まずそうに睫毛を動かしていた。
左手の指先で僕の手の甲を撫でながら、頷きもせず、腕を振りほどくこともせず、ただ沈黙を貫いている。
「少し、痛いのだが⋯⋯」
「――ご、ごめん!」
力の抜けた僕の手から、彼女の腕が滑り落ちる。
目蓋の裏に映った黒から一転し、僕の眼前は真っ白に染まった。




